外交官としての生涯
外交官への道・領事官補での仕事
◇外交官への道
- 1874(明治7)年1月24日、頸城郡下堀之内村(現在の上越市大字諏訪)生まれ。
- 分教所を経て、10歳のころから米岡校で学ぶ。
- 12歳から高田中学校に学ぶ。14歳の夏ころから上京の念にかられる。
- 14歳の冬に上京し、神田駿河台の成立学舎に入校する。
- 仙台の第二高等中学校補充科予科を経て本科法科に学ぶ。
- 1896(明治29)年9月に東京帝国大学文科史学科に入学、1年後には英文科に転科。
- 2年生の中ごろから外交官への希望を強くした。法律経済の独学、英文科の授業、外交官試験の準備など猛勉強の末、1899(明治32)年7月卒業。
東京帝国大学文科大学卒業証書
ラフカディオハーン、井上哲次郎、上田万年等の著名な学者のサインが見える
外交官へのスタート外交官及び 領事官試験に合格
明治32年10月19日
- 1899(明治32)年9月に外交官試験に合格する。
- 外交官補を転官して領事館補となる。
◇厦門(アモイ)領事館 領事館補
- 1900(明治33)年2月初めに厦門(アモイ)領事館に着任。外交官としてのスタートを切る。
- 義和団事件への対応
- 台湾総督の厦門占領計画未遂事件の処理を行う
(義和団事件で同期の児島正一郎が死亡)
◇上海(シャンハイ)領事館に転任 領事館補
1902(明治35)年2月11日~1904年7月(2年4月)
- 日清通商航海条約
- 漢治萍鉄鉱借款条約
(大治鉄山の鉄鉱を若松製鉄所に運ぶための条約) - 利権拡大のための投資
- 日清汽船会社の揚子江上流域の航海権
- 招商局の借款
◇牛荘(ギュウソウ)領事館 領事館補
1904(明治37)年9月~1905年1月
※日露戦争開戦は1904年2月
- ロシア戦争激化 203高地陥落、日露海戦
- 3か月で帰国 戦闘状況を視察しながら鎌倉丸で帰国
◇ロンドン着任
1905(明治38)年2月10日~1906年4月
香港領事任命予定で帰国⇒取りやめ
◇政務局書記官後に第一課長(4年間)
- 日露戦争の後始末 内外人の賠償要求の処理等
- ポーツマス平和条約に伴う協定書の締結等
◇英国大使館 1等書記官
1910年(明治43)4月~45年6月
- エドワード7世の葬儀に参列。
- 日英通商条約改正交渉(筆記者の役割) 交渉は、加藤高明大使があたる。
◇漢口領事館 総領事
1912(明治45)年~1913年12月
- 直江津銀行の過大貸付の為に取付にあい、実家は空き家になる。債務整理の為一時帰郷