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希望燃ゆ 諏訪の里

希望燃ゆ 諏訪の里 [第11回] 9.村の自治組織・・・北新保村庄屋選任問題の件・・・

□村の組織
江戸時代の村々には庄屋をはじめとする村役人が置かれた。庄屋・組頭・百姓代を村方三役という。村役人は、幕府や藩の指示や命令を受けて村政を行うとともに、村内の自治活動の中心的な役割を担った。庄屋は、上杉時代の「中使(ちゅうし)」という呼称が、堀氏の時代に「肝煎(きもいり)」と改称、松平光長時代に高田藩は1632(寛永9)年に「庄屋」と改めた。その後は高田藩領、幕府領では引き続いて「庄屋」と呼ばれた。この庄屋、組頭、百姓代が村政を担っていた。一般的には庄屋が村政全体を代表し、組頭がその補佐役、百姓代が監査役と説明されるが、実際のあり方は多様だったようだ。地域差があるばかりではなく、同じ地域内でも村ごとに職務内容が異なることがほとんどである。また、江戸時代の後期には、経済情勢の変化に巻き込まれた庄屋の中には没落して職務が行えなくなる者も現われるようになり、代わっ入札いれふだ=選挙)などによる選出も行われるようになった。庄屋等の村役人の村政運営をめぐって起こる「村方騒動」といわれる村内の争いもみられた。多くの場合、近隣の村の庄屋が中に入り解決が試みられた。
北新保村では、真砂堰用水の争いと絡んで、「庄屋選任の騒動」があった。

□上真砂村惣代市郎左衛門他が取曖人(とりあつかいにん)となった門前村庄屋役をめぐる争い
1757(宝暦7)年、門前村の庄屋善三郎が5年以前に病死、跡役はしばらくの間という約束で五左衛門が務めていた。ここに組頭源左衛門以下11人から善三郎跡方に庄屋役を戻すようにという願いが出され、上真砂村惣代市郎左衛門他2人が取瞬人(とりあつかいにん)となる紛争があった。この紛争は、善三郎の跡式を幸助にと願う農民と五左衛門を推す農民、さらには中立の農民もいて村内不一致ということで、取瞬人が仲立ちとなり庄屋給米・役割などが取り決められた。

□北新保村庄屋交代の問題

庄屋役・庄屋給に関する証文-北新保村(『上越市史 通史編3 近世1』 P.480より転載)


庄屋は近世前期には世襲の形を取ることが多かった。しかし、中期以降は世襲庄屋による村政独占の形は次第に崩れ、輪番交替制や入札による場合が増えてきた。宝暦年間になるころ、北新保村は2年交代で庄屋を務めると取り決めてきたが、1759(宝暦9)年に庄屋となった弥左衛門は、期限がきても退役しなかった。弥左衛門が高齢になったこともあって、村では川浦代官所に願い出て1772(明和9)年にようやく弥左衛門を庄屋から退役させ、安右衛門に交代した。その後は1年交代となり、1787(天明7)年には5人の村人の中から順番に務めることになった。ただし、これ以外に身元の良いものが出たときには5人が相談のうえで庄屋交代のメンバーに加えること、5人のうち身上(しんしょう)の立ちいかない者が出たときはその者を外すこととした。この後、6人の百姓で年番交代で庄屋を務めるようになった。1811(文化8)年2月から翌年2月までは、伊佐衛門が庄屋を務め、次は佐兵衛が務めることになっていたが、伊佐衛門が庄屋の引き渡しを拒んだ。佐兵衛をはじめ組頭・百姓代等13人は、2月晦日に交代するよう郷宿(ごうやど)に願い出たが伊佐衛門は承知せず、願書の連印を抹消してしまった。そこで佐兵衛方は郷宿で双方の意見を調整しようとしたが、伊佐衛門はなお承知しなかった。佐兵衛方は「無高同様の伊佐衛門に庄屋を勤めさせることは百姓として安心できない」として、伊佐衛門を召し出して庄屋役の交代を命じて欲しいと川浦代官所に願い出た。
伊佐衛門が庄屋役の引き渡しを拒んだ背景には、真砂堰用水の利用をめぐる争いがあった。当時は、真砂堰争論の最中で、北新保村は堰の下流にあったが争論には加わらないでいた。しかし、争論中のことでもあり庄屋が争論の引き合いの場に出ることを想定し、この時点での庄屋の交代には村としても賛否が分かれていた。そこで、中島村庄屋治郎右衛門と南新保村庄屋助九郎の両名が間に入り和談が成立した。その結果、堰下争論が解決するまで、伊佐衛門と新屋敷村庄屋由右衛門の両名が相庄屋として御用ならびに村用を務め、堰下争論が解決後は以前のように1年交代で庄屋を務めることになった。堰下争論は1815(文化12)年に解決、庄屋由右衛門は老齢でもあったため兼任庄屋からの退役を願い出ている。(『上越市史通史編3 近世1』pp.480-481による。)
なお北新保村では、1787(天明7)年に庄屋を5人の百姓の中から年番交替とするという取り決めをつくった際に、組頭も3人の百姓から年番で交代ということを決めている。その後、百姓代も庄屋・組頭と同様に年番交替となり一村を東組と西組に分けてそれぞれ三役を出すことになった。

≪参考≫
郷宿 代官所へ用事に来る村人の宿舎は村ごとに決まっていた。この宿を「郷宿=ごうやど」という。郷宿は、宿舎というだけでなく、役所へ訴願や届けをする時の手続きや、書式などの手助けも行った。代官所の指示で、庄屋たちとともに仲裁人になることもあった。訴訟や裁判の途中で、犯行が重いときや訴訟態度が悪いときには、逃亡を防いだり懲戒したりするために「郷宿預け」として、郷宿での監視付き謹慎を命じることもあった。川浦代官所のあった番町では、「油屋」「酒屋」「太田屋」「永野屋」の4軒が郷宿だった。

 ※引用・参考
・『上越市史 通史編3 近世1』pp.480-481、pp.484-485、p.501、p.545 上越市(2003.3.31)