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希望燃ゆ 諏訪の里

希望燃ゆ 諏訪の里 [第16回] 14.水利権確保に奔走、初代諏訪村長を務めた野俣佐平治

野俣佐平治翁

石碑「野俣佐平治君傳」 通称「ケイキ山」または「ケイケ山」と呼ばれていた小さな丘があった。字名の「慶海(けいかい)」に由来した呼称と思われる。かつてはその上に石碑が立っていた。この石碑は、中江北部第一地区圃場整備事業の実施によって2003(平成15)年に生家(現伊藤家)敷地内に移転された。石碑には、次のような碑文が刻まれている。


野俣佐平治君傳 は読み方の概略
野俣君佐平治越後国中頸城郡諏訪邑米岡人/野俣君佐平治越後の国中頸城郡諏訪村米岡の人
天保九年生/天保九年生まれ      父佐治右衛門母服部氏/父佐治右衛門母は服部氏
性剛毅有在幹/性格は剛毅で幹(才能)在り  処事不撓/処事撓(たわ)めず
為人謀忠郷党/人の為郷党忠を謀る   多属望焉邑/焉邑(えんそん)多属を望む  焉=いずくんぞ
嘗為幕府直轄/嘗(かつ)て幕府直轄為り    野俣氏世為里正/野俣氏里正として世を為す
君少壮父罹病久在床/君少壮より父病にかかり久しく床に在り 君代処理理正之務/君代わり理正の務めを処理
且総摂中江灌渠之事皆得/且つ中江灌渠の事、皆得て総てを摂る
其冝名聲聞遠近既/其の冝(将也庄屋としての)名声は既に遠近に聞こえた
而明治維新百事更張/而して明治維新になり百事更張(多くが見直された)
五年分郡村為/明治5年には郡、村を分け  大小區小區置戸長/大小区に分け小区に戸長を置く
君任之無幾癈戸長/君は任につくがこれ間もなく戸長が廃止される 為副大區長君又任之/君又副大区長之の任を為す
八年有地租改正之事/明治8年地租改正の事 君為其顧問公正精勤官賞譽/君其の顧問に為り公正精勤政府の賞譽をえた
之十二年新設郡區官衙君為縣會議員/之の12年郡區官衙新設 君県会議員になる
自十四年以公選為中江灌渠事務総理/明治14年、公選によって中江灌渠事務総理
爾来至十八年/爾来18年まで務めた  其間事関水理者処置皆得其/その間、水理にかかわる処理皆的確だった。
冝就中中江灌渠水源之一/なかんずく中江灌渠水源之一つ
信州野尻湖水之事拮据經画/信州野尻湖利水の事きわめて適切に果たした
特約土人確定主権者/特に土地の人(野尻の人)と主権者を確定し約束
永絶後忠其功最著/(問題の)永絶の功績はもっとも著しい
矣廿二年布町村制君又以公選為村村長/明治22年に市町村制が布かれ公選で村長になる  矣=不読文字
鞅掌経営事皆就著/鞅掌経営(おうしょうけいけい)事は皆進み始めた。
廿六年俄然罹病不能省事/明治26年俄かに病気になり省事が出来なくなる
嗚呼君盡力水理公務如斯/ああ君水理公務の尽力は斯ようの如くにあった。
而罹不慮之病/不慮の病に罹したことは
不獨君之不幸乃郷党之不幸也/君一人の不幸だけでなく郷党の不幸であった。
今茲知友相謀/今茲に知友が相謀りて  欲刻君功石而傳後世/君の功を石碑で後世に伝えようと
属於予/私(山岸)が行う       予與君相知久/私(山岸)は君と相知ること久しかったので
矣因不辞不文記其概畧云/因って不辞不文ながら其の概略を記す
明治廿七年八月中浣/明治27年8月中陰      舒逸山岸俊蔵撰併書/舒逸山岸俊蔵撰併書
                          二峯古市多蔵刻/二峯古市多蔵刻  


 「性剛毅有在幹」 野俣佐平治は、1838(天保9)年に米岡村に生まれた。野俣家は、代々庄屋を務めていた。父が病気がちなため、若いころから父に代わって庄屋の仕事や中江用水の事務を行い、その才覚は多くの人に認められた。
 米岡校を開設 1872(明治5)年、それまでの郡や村が大小区にあらためられた。小区には戸長がおかれ、佐平治は米岡小区の戸長となった。この年、学区制がひかれ、翌年1973年に佐平治は自宅の納屋を改造して、米岡校を開設した。小区制廃止の後は、副大区長となった。
 中江管渠事務総理就任 1875(明治8)年、地租改正が行われた。佐平治は、地租改正の顧問となった。政府も認める公平・精励な務めだった。1879(明治12)年に郡役所の新設に伴い、押されて県会議員となった。1880(明治13)年、「中江用水組上福田新田始め八十七ケ村連合会」が組織される。1881(明治14)年に行われた創設会議で佐平治は「中江灌渠事務総理」に就任した。この時期、中江用水組合は、従来の慣行を成文化し、さらには水門の胴木切り下げなどを希望、1877(明治10)年4月に野尻村との盟約を交わしていた。しかし、胴木切り下げは、様々なことで延び延びになっていた。この協定を結ぶために奔走している。佐平治の努力もあって、1881(明治14)年に決着し協定を結んだ。この協定によって野尻湖水の水利権が中江用水にあることが確定した。また、懸案だった通称「愛民社」による新田開発のための野尻湖水の導水についての処置について、大字野尻による東京控訴院への控訴の参加人となり、1890(明治23)年9月に勝訴を勝ち取っている。
 諏訪村設立により初代の議長・村長に就任 町村制の施行による「諏訪村」の誕生で、1889(明治22)年に初代村長に就任、新しい村の建設に奔走した。しかし、1893(明治26)年に急病で死去した。

 ※ 引用・参考
 ・石碑「野俣君佐平治傳」 所在地;大字米岡(8建立) 
 ・『中江用水史』229-234 中江土地改良区(1967.3.30)
 ・『新編中江用水史』294-301 中江土地改良区(2006.2.28)
 ・明治22年度諏訪村議会議事綴(3)上越市公文書センター蔵