MENU

外務大臣就任と5.15事件

page_title_chapter05

◇外務大臣就任要請

1931(昭和6)年12月12日に外務大臣への就任要請を受ける。帰国の途に。この時点でようやく満州事変の勃発から満州国の成立までの全容を知る。

◇外務大臣就任

1932(昭和7)年1月14日に外務大臣就任。

photo_05_01
犬養内閣の外務大臣に就任
昭和7年1月14日

photo_05_02
外相就任の日(操夫人と共に)
『外交60年』芳澤謙吉著(中公文庫)グラビア写真による。

photo_05_04
正三位に叙せられる
昭和7年1月15日

◇外務大臣として

  • 経験から、満州国建国に否定的立場をとる。
  • 1932(昭和7)年 上海事件勃発
    上海駐在海軍陸戦隊と中国軍が衝突、戦局の激化対応。(4月に停戦協定)
  • 同年 リットン調査団来日への対応。
  • 同年3月 満州国独立宣言
    官邸での会議では「独立は承認できない」と主張した。しかし、軍部、政党、言論などの時の勢いに押し切られていく。

◇5.15事件

1932(和7)年5月15日 5.15事件発生。
戒厳令を引くことも検討。謙吉翁は高橋是清蔵相などとともに反対した。

  • 5月14日、首相官邸の異変で官邸大広間に入り犬養首相の死去に遭遇。「5.15事件」。
  • 犬養内閣総辞職

photo_05_03
5.15事件「首相凶弾に倒れる」の知らせで官邸につめかけた芳澤家の人々
『決定版昭和史6』 p.102(毎日新聞社)による

◇貴族院議員

1932(和7)年7月、貴族院議員に勅選。交友クラブ所属。

photo_05_05
貴族院議員に任ぜられる
昭和7年7月1日

  • 1936(昭和11)年8月。太平洋問題調査会で「中国における日本軍の行動に対する非難」「9か国条約に対する日本の見解」などについて日本の見解を中心的に答える。
  • 1936(昭和11)、年政友会分裂で政友会正統派総裁代行委員に就任。

 

 btn_prevpage  btn_nextpage