おわりに
◇ 高田市名誉市民第2号
- 1964(昭和39)年7月には、高田市名誉市民第2号に推挙されている。
昭和39年、戦後初の生存者叙勲「銀杯5号」が贈られる。
7月には高田市名誉市民(第2号)に推挙された。
◇ 米寿の祝い
- 米寿の祝いの発起人の顔ぶれからも、謙吉翁の功績の大きさがうかがえる。
◇ 蒋介石からのお祝い
- 蒋介石から満90歳のお祝いを贈られる。その信頼関係を知る事が出来る。
謙吉翁の90歳の誕生日を祝って
中華民国蒋介石総統から贈られた額
けんしょう
謙吉翁の功績を「けんしょう」碑(撰文並書 高田市長 川澄農治)は次のように記している。
芳澤謙吉翁明治七年一月二十四日高田市大字堀之内(元中頸城郡諏訪村)の素封家に生まる資性英邁重厚篤実夙に郷党の師表と仰がる明治三十二年七月東京帝国大学文科を卒業後外交官試験に合格外交官補として支那各地及ロンドン領事館等に赴任其の非凡なる才幹と外交手腕を認められ明治三十九年四月外務省政務局第一課長に任命され次で大使館一等書記官、総領事、大使館参事官、外務省政務局長、駐支全権公使、駐仏全権大使等歴任昭和七年一月外務大臣仝年五月退官して貴族院議員後昭和十六年仏印特派大使、枢密顧問官昭和二十七年中華民国全権大使として台北に在住三ヶ年全生涯を通じ我国外交界の重鎮として国際場裡に活躍せられた
此の間我国と唇歯輔車の関係にある支那に在任すること実に前後二十年唯一の亜細亜通として複雑な諸問題に直面克く実績を挙げらる就中支那内政の変動に伴う我国権益の確保、ソ連革命後の国交回復、国際連盟を揺がした満州国独立、上海事件等を通し當時やがて来るべき我国の一大転換機の胎動期に於て、幾多の難局に重要な役割を演ぜられ後更に日蘭経済交渉、仏印軍事協定等に対処せられた努力は国民等しく感銘し居る処実に其の業績は我国外交史上燦然として不滅の栄光に輝やくものである
卋人深く其の偉功を称う茲に有志相謀り翁の像を建設し録して以て後世に傳う
昭和三十四年九月六日
高田市長川澄農治撰文並書
謙吉翁の人間像を、福岡県の樋口正士氏は、著書『芳澤謙吉 波乱の生涯』のエピローグで、次のように述べている。
芳澤謙吉は、外交官としての交渉の心得は、根回しの必要性、交渉過程での納得のいくまでの粘りと主張の繰り返し、情をもっての諭しの必要性を強調する。赴任先では、常に民族そのものを対象とし、その時の政権を相手に交渉することであり、決して派閥を対象としたり内政に関与したりすることは極力避けるべきであると説いている。また、大使館、公使館、領事館の職責の一つである駆け込み亡命の処理においても、緊急性を多分に有するため、決断力が問われるが、その受理と事後処理の尽力には、誠意をもってあたることであるとしている。この誠意は、着任前に現地の視察やあらかじめ重要な人物にあい、対象地域の懸案事項の確認、交渉の基礎作りをして、赴任後の仕事が円滑に行うための準備も行っている。赴任に先立っての相手国の言語の習得も意思の疎通を図る上で必要かつさけえないこととして実践している。
(略)赴任先で、折衝に当たった人々に残る芳澤は、それぞれの国情や立場の違いを超越した、人間芳澤謙吉として好感が持たれている。
(略)軍部専横の時代にもかかわらず、自らの信念を曲げず、あくまでも平和的な外交手段を貫き、相手国の理解と多くの譲歩を勝ち得て、戦中・戦後のわが国の国益を守り通したのである。芳澤は、それが自分にとって望ましくない要請であっても、それを拒否しなかったのは、国を思う心であり、外交官魂であり、また要請してくる政府の立場を理解するが故の起用受諾だったのであろう。また、人柄でもあったのだろう。