希望燃ゆ 諏訪の里
希望燃ゆ 諏訪の里 [第24回] 20.「諏訪村歌」と村歌がつくられた時代
希望燃ゆ 諏訪の里2022.02.04
注
遺業;偉大な事業、優れた仕事
炎熱冱寒(えんねつごかん);燃えるような真夏の暑さや凍るような冬の寒さ
精神一途(せいしんいっと);気持ち、心を目標達成のために立てたひとすじの方向
徳化;徳によって多くの人々を正しく感化(=相手に影響を与え、考えや行いを変えさせること)すること。
弥栄(いやさか);今までよりも栄えること
制定 ぜひ村歌を作ろうという思いをもった川室貫治教育会長と寺田憲三村長が協議してつくられたのが「諏訪村歌」である。歌詞は、村民から公募し、皇紀2600年の前年に制定された。
■1939(昭和14)年制定
■寺田憲三村長、川室貫治教育会長
■選者 相馬御風
■作詞者 草間猛夫(南新保出身)
■校訂 相馬御風
■作曲者 石井信夫(高田師範学校教員)
作詞者 草間猛夫
南新保出身の草間猛男は、1938年(昭和13)年11月4日に新潟港から出航、満州に渡る。最初は、ハイラルに軍属として在勤する。この頃、募集された「諏訪村歌歌詞」に応募し、一等に入選した。その後、新京関東軍倉庫本部に転任する。太平洋戦争開戦後の1942(昭和17)年8月に帰郷、妻を迎えて満州に帰る。その後、二人の女児をもうける。終戦後、身に迫る危険を感じて平壌に引き揚げたが、そこで子供を失う。2046(昭和21)年1月15日、疲労と栄養不良により死去。猛男と二人の子供の遺骨を抱いて帰国した妻は、9月に猛男の葬儀を済ませた後、11月に他界した。
「諏訪村歌」がつくられた時代
■1937年(昭和12年)
・盧溝橋事件発生。軍隊が衝突し、日中戦争に拡大
※昭和12年(1937)7月7日、中国北京郊外の盧溝橋での日中両軍の小衝突を発端として、7月末には日本軍が北京・天津地方を制圧。8月には、上海で海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が射殺されたことを契機に、日本は上海地方への出兵を決定。9月2日には、「支那事変」と呼称すると発表し、日中は全面戦争状態に突入した。(日中戦争;我が国の当時の呼称は「支那事変」)
■1938年(昭和13年)
・1月 近衛文麿、「国民政府を対手とせず」の声明
・3月 南京に中華民国維新政府成立
・4月 参謀本部、徐州攻略作戦を許可
・5月 国家、総動員法公布
同 飯田川改修(東中島~上千原)S13.3.5着工~16.3.11竣工
・7月 張鼓峰事件(=日ソ武力衝突)<~8月>
・10月 日本軍、バイアス湾上陸。広東占領。武漢三鎮を攻略
・12月 汪兆銘が重慶脱出
※ 愛国行進曲 森川幸雄作詞 瀬戸口藤吉作曲
一、見よ東海の 空あけて 旭日高く 輝けば 天地の正気 はつらつと 希望はおどる 大八洲 おお晴朗の 朝雲に そびゆる富士の 姿こそ 金甌無欠 ゆるぎなき わが日本の 誇りなれ
この愛国行進曲が発表されたのが、1937(昭和12)年12月、聖戦完遂という戦意昂揚から生まれた国民歌であった。爆発的な人気で、レコード100万枚を売上、国民心理のなかに戦争気運が高まった時期といえる。
■1939年(昭和14年)
・5月 ノモンハン事件(日ソ武力衝突)<~8月>
・12月 中ソ航空協定締結。日本軍、中国最南の海南島占領
■1940年(昭和15年) <芳澤謙吉が全権として蘭印で経済交渉にあたる。>
・1月 汪兆銘、南京で親日政府を樹立(南京政府)
・9月 日本軍、仏領インドシナ北部(北部仏印)に進駐(23日)
・8月 八路軍、日本軍に対して大攻勢(百団大戦)<~12月>
・12月 仏印とタイが武力衝突
※ 引用・参考 『想出の写真帳』諏訪村遺族会(1950.9)