希望燃ゆ 諏訪の里
希望燃ゆ 諏訪の里 [第25回]こらむ 戦時経済統制で消えた銘酒「雲ノ井」
希望燃ゆ 諏訪の里2022.02.04
慶応年間の地区内の酒造所 大政奉還が行われ、翌年9月には「明治」と元号が変わるころの1867(慶応3)年に長岡の判木屋又兵衛刀による「越後醸酒家一覧」が出されている。この本の中には、諏訪地区の醸酒家として、次の4人が掲載されている。
米岡;野俣万次郎、上真砂;寺田重左エ門、上真砂;中里惣次右衛門、堀ノ内;芳澤伊左衛門
これらの醸酒家が、いつ頃まで酒造りを続けていたのか、現在は不明である。諏訪村の成立時に村会議員を務めた芳澤襄良、初代村長を務めた野俣佐平治の時代には既に、酒造りは行われておらず、清酒の生産を続けていたのは上真砂の中里酒造所だけとなっていたものと思われる。1942(昭和17)年4月と1943年3月の「諏訪村便り」の中に、<中里醸造所の銘酒「雲ノ井」>という記述が見られる。諏訪地区唯一の造り酒屋として中里醸造所は、太平洋戦争末期まで生産を続けていたことが分かる。
食料確保へ 1937(昭和12)年7月、日中戦争が始まると食料の確保が求められ、国家統制が行われる。1939年の夏の西日本、台湾、朝鮮半島の大干ばつによる米の減収は、食料不足に拍車をかけ、食料問題が深刻化してくる。この食糧危機の打開策として酒造原料米の節米が指向された。この時点で、酒類の生産は完全に国家の統制下におかれることになった。1940(昭和15)年に入ると、米の供出制度の施行、4月には6大都市で米の配給制が実施された。8月には臨時米穀配給統制規則が公布され、米穀の出荷は農会の統制下に入る。10月の米穀管理規則で、米穀の国家管理が完成した。合わせて政府は米の生産低下を防ぐために県に食料増産本部を設けて、食糧増産の督励と「勤労奉仕運動」を展開する。
廃止製造所となる この食糧事情と生産力の低下という状況下で太平洋戦争が開戦された。国の経済政策は、経済戦力の増強の一点に絞られる。酒造業界でも原料米の随時削減、清酒生成高の漸減により縮小を余儀なくされた。国の基本方針は、極力強権発動を避け、指導勧奨と自発的活動に待つという建前だった。新潟県酒造組合連合会は、様々な困難を克服して1943(昭和18)年10月31日に、最後の決定案をまとめた。この決定案の中で、上真砂の中里醸造所は「廃止製造所」と示され、芳澤謙吉翁に贈呈されてから間もなく雲ノ井は姿を消した。戦争統制経済の中で、続けられてきた地域の酒造文化が終焉したのである。
廃止製造所案に示されたのは、17酒造所だった。中里酒造所は、次のように示された。
<高田酒造組合 操業製造所21、保有製造所4、廃止製造所17>
廃止製造所 227,241合 諏訪村大字上真砂133 中里二郎
※引用・参考 『新潟県酒造史』105-109、p.488 新潟県酒造組合(1961.9.5)