苦労の北京公使館時代
◇北京大使館 参事官
1916(大正5)年9月~1918(大正7)年12月
- 袁世凱荷よる復壁事件勃発 段祺瑞、馮国璋等の討伐軍により収束。
- この後に北京を支配した段祺瑞政府との交渉を担う。
◇参事官のまま政務局勤務
- 3・1独立運動(万歳事件)と英国人宣教師の不祥事件についての現地調査を行い解決方策を原敬首相、内田外相に提言。(力では解決なし)
- 政務局長、アジア局長、欧米局長を兼務。文化局長就任。
◇清国駐在特命全権公使
1923(大正12)年6月~1929(昭和4)年8月
北京公使館勤務時代
1923(大正12)年年、特命全権公使として抗日運動、北伐の進行する時代、北京大使館に勤務。ワシントン会議での9カ国条約の履行交渉、吉田茂総領事を介しての直隷軍閥との交渉、日露戦争後の日ソ国交回復交渉での日ソ基本条約の締結などを行う。また清朝の最後の皇帝、宣統帝をかくまい、落ち延びるのを見送った。また、軍閥張作霖の北京撤退を促し、蒋介石が率いる国民革命軍の北京入城を果たさせようとした。
- 願維釣外交総長の就任あいさつ事件。その後和解
- 排日・排日貨運動が激しかった。直隷省長王承斌(オウショウヒン)、当時の北京政府の大物曹?、外交総長願維釣などと排日運動緩和の交渉
- 願総長は排日運動緩和に尽力した。
- 関東大震災の外電はすべて北京、ロンドン経由で欧米各地の大公使館に打電された。
- 在任中、軍閥政権は安徽派、直隷派、奉天派、国民党と推移。
- 1924(大正13)年2月より、北京駐剳ソ連大使カラハンと国交再開条約交渉、70回を超える交渉の末、翌年1月20日に日ソ基本条約締結。ロシア革命で中断していた国交回復交渉
- 7月には、樺太調査。石油資源確保、国交回復に伴う共産主義への対応、ニコライエフスク事件の事後措置
- 13年秋、第二奉直戦争(直隷派曹?と奉天派張作霖の争い)。馮の武将鹿鐘麟が紫禁城に入り皇帝に危害を加えそうになる。宣統帝が落ち延びるのをかくまう。1925年(14年)天津に移る。
- 奉天派が政府を樹立
- 1926(昭和1)年6月 蒋介石、北伐の大号令。7月9日北伐軍が広東を出発。
- 1927(昭和2)年 大元帥張作霖と満鉄本線、京奉線交差問題など交渉
- 同3年4月 国民軍が北京に殺到。北京明け渡しを提言したが聞き入れられず。
- 同6月1日 張作霖、大元帥府の奉天移転を説明
- 同6月3日 張作霖、北京を離脱。その後死亡(爆殺)
- 同6月8日 北伐軍が北京入城。蒋介石など4将軍があいさつにくる。
- 1929(昭和4)年に発生した、陸軍の膠南鉄道占領事件処理での交渉などで蒋介石と親交を深める。
- 同年 国民政府との交渉、条約の成案をまとめる。大綬景星勲章を受章。
- 済南事件解決協定調印