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里づくりだより

【諏訪の里の碑】~ 晩香川室翁碑 ~

天保十三(一八四二)年に北新保村に生まれ、二十歳をすぎたころから医学の道を志し、明治維新で西欧化が急速に進む明治六年に横浜に赴き、次いで東京に出て眼科・内科の研鑽を深め、明治十一年に帰郷し眼科医院を開設。「ナスガラ新保の眼医者」として近隣はもとより隣県からも患者が列をなしたという現在の川室記念病院を開設した川室道一(号は晩香)の顕彰碑です。篆額は前島密の揮毫です。

大正四年三月建立 【大字北新保 諏訪社境内】

この碑には、次の碑文が刻されています。

碑文を意訳すると、次のようになります。

晩香川室翁碑
東京帝國大學文科大學教授
従三位勲二等文學博士星野恒撰文
従二位勲二等男爵前島密篆額

上越の地というものは、山を背負い 海を抱く 谷や沢が集まるところには自然に大きな川が出来、平野を流れて海に入る。灌漑の便が良く、土壌は肥沃で民はくらし(産業)が豊かで、風俗は素朴である。仙人の住むところのような良いところだ。川室晩香はここに住んでいる。
翁の郷を諏訪と言い、里を北新保という。高田城と川を隔て相對し 遥か春日山を望める。春日山は、上杉霜台公の城跡である。霜台公は、神がかりで勇ましく、よく戦い、一世を風靡した。
公を崇拝し、慕わない人はいない。翁もその一人である。人と語るそのたびごとに 公の遺徳を説くことに熱心で飽きることはなかった。
春日山上には霜台)公の祠がある。晩香翁は桜梅を植え、それは祠のあるところから麓に及んでいる。謹んで誠がこもった志は、このようであった。故に天真爛漫で飾り気がない。事があると進んでそれを行わないではいなかった。(=行うべき事は必ず行った。)ただ、医者として優れているだけでなく、武士の風も兼ね備えている。
翁の諱は道一といい、幼いころは松太郎という。川室は翁の氏で、晩香はその号である。亡き父は市十郎、亡き母は野上氏で、家業は農業であり、里正を務めた家柄である。
翁は幼少時から、才知鋭く賢く学問を好んだ。父の意により農業に携わっていた。ある時、一念発起し、「世の人を救い、徳を立てるには医学に及ぶものはない」終生、粗末な衣服で、他に何もすることがないとしても。そこで、父親に願って、高田藩医の鈴木道順に師事し、一年半ほどで業を身につけた。更に、西洋医学を修めることを欲し 明治六年に横浜に行き、長瀬時衡、アメリカ人ヘボン等に師事した。また東京に行き佐藤尚中や井上達也に就いて数年間研鑽を行う。その中で最も眼科が得るところが大きかった。(研鑽が)済んで帰ると、良い評判が立って、遠近より集まって治療を乞う者がいつも門前に一杯だった。北の地は雪が多く、日光の照り返しで目を患う者が多かった。
明治十二(一八七九)年、明治天皇の北陸巡行の時、当地に盲人が多いことを憫まれて、金一封を賜り救済の法がとられることになった。県は區毎に医者を配置し治療を行うことにした。翁はその医者に選ばれた。翁の資質は、情けが深く、苦しみ 難儀がっている人を 見ると 自分自身が受けるかのように診察(?視撫摩)した。寒暑悪疫を避けず 診察した。世の中の医者は、診察を請われても尻込みすることが多かった。翁は、請われれば即座に往診し、危険や苦しみも恐れずに進んで身を置き、少しも嫌がらない。強い思いと覚悟をもって、診療にあたっていた。このため、人々はその義に感じ 有難く懐った。
翁はまた教育も重視し。郷学校を創立し、儒学の先生を招いた。郷の人々は頼みにしてそこに身を置いて、一人前になる者が多かった。里の田んぼが日照りの害を受けると 翁は溜池をなおし、水門を設け、灌漑したところは十町歩程、他は殖産、衛生のように、およそ世の人のためになることは力を尽くして行った。
翁は、父母を大切にし、人間として行うべき道に人情細やかで深い。毎朝、早起きして手を洗い、口をすすぎ、東を向き皇居を拝み 次に神棚を拝み、次に孔子像を拝む、次には父祖祠堂を拝み、その後に朝食を食べるのを常とする。普段は質素にして、破れた着物、袴を繕い数年はかえない。そうではあるが、国家に事がある毎に、率先して金品を寄付し、少しも出し惜しむことはなかった。常に子弟に論孟は修身の基本であり典謨(てんぽ)は、国を納めていく上での道徳の基であると諭し、教えている。技術は、まさに西洋のものをとりいれるべし。
三人の弟がいる。清造は、郵船社員で兵庫丸の船長である。圭吾は、陸軍教授 謙吾は高田貯蓄銀行取締である。弟三人が人物となれたのは、皆翁の励ましによるものといえる。大正元年十月二十五日に病で没した。享齢は七十一歳。高田直江町の照蓮寺に埋葬する。竹田氏より妻を取り、男の子が三人 長男は、貫治で醫學博士、家を嗣ぎ 家業は一層盛んに、二男の省吾は幼くして亡くなり、次の周ニはアメリカのカリフォルニア大学で学び、卒業後は帰って清造の後を継いだ。女の子は二人。長女は、植木義治に嫁ぎ、次女は宮崎久吉に嫁に行き、分家をしたが、既に亡くなった。門人や旧知の人が互いに相談し、文を請い、石碑を建てようした。圭吾、周ニも、また代わる代わるやってきては頼む。私は、翁とは面識はないが、そうはいっても、同郷の誼がある。その上、その願い(頼み)は、行き届いていて(真心がこもったもので)辞退することはできないものだった。故に手紙により その概略を述べ、銘にて繋ぐ  この翁は飛びぬけて優れた人で、志は確かで、精神(気持ち)は強い。真面目でひたむきで飾らず、表裏はない。医学を熱心に学び 孔子や孟子の徳を仰ぎ、長患いやすたれるものを起こし(=重い病の者をよみがえらせ)、世の司命(神様)だった。
どんな時でも、翁は忠実で 知っていて行わないということはない。農業を奨励し 産(くらしの元)を起こし、学を奨励し、才能を育んだ。近郷近在は美(立派)で、これを仕遂げ、これを導き出した。近在で争いがあれば、これを仲介し、解決する。勇(物事をおそれない勇気)を損なわず、義を誤らないことは、霜壹公よりの越後人の粋である。善行を積み重ねると福がある。豊かさを後の世に残す。どのようにして これを明らかにしたか。この銘文に示す。 大正四年三月