MENU

希望燃ゆ 諏訪の里

希望燃ゆ 諏訪の里 [第7回] 5.いつの頃から人は住んだのか…遺跡発掘から見えること…

遺跡の発掘
ほ場整備事業や道路建設で遺跡発掘調査が行われる。地域高規格道路「上越魚沼地域振興快速道路」の一部として建設が進められている一般国道253号上越三和道路建設予定地でも遺跡発掘調査が行われた。諏訪地区では、下割(しもわり)遺跡、堂古(どうこ)遺跡等の遺跡発掘調査が行われた。この結果、ほ場や集落の下に多くの遺構、遺物が見つかった。

 

発掘された遺物・遺構 (古墳時代~鎌倉・室町時代)

下割・堂古遺跡は、米岡集落の西側の水田の下に広がる遺跡で、沖積地にある。遺跡の東側には飯田川が流れている。2002(平成14)年より断続的に調査が行われた。下割遺跡は、大まかには上層=古代・中世、中層=古墳時代前期、下層=縄文・弥生時代からなっている。

古墳時代
掘立柱建物や土器だまり、河川跡などが確認された。掘立柱建物の柱穴には礎板が敷かれているものがあり、柱が 沈まないように工夫されていたことが分かる。また河川跡からは古墳時代前期の土器が多く出土した。これらから、古墳時代には遺跡内を川が流れ、その岸辺で人々が生活し、使用済み土器などを河川に捨てていたと考えられる。
この時代の遺構・遺物の多くは東側の小高い場所で見つかっている。ムラの回りを方形(または円形)に溝が巡らされていて、この溝の周辺からも土器が多く出ている。甕や土器が集められたかのようにまとまって出てきたところがいくつかある。日常の煮炊きに使った甕の半数くらいは、近畿地方の影響を受けた甕だという。

室町時代
古墳時代から中世(室町時代)までの遺物が出土しているが、主体は室町時代(14〜15世紀)である。掘立柱建物や井戸等が見つかり、集落跡が確認できる。総柱建物や庇付建物などが建物軸を揃えて並んでいた。総柱建物は倉庫、庇付建物は住まいと考えられる。建物の周りには井戸や竪穴状遺構がある。井戸は、一つの建物の周りに3~4基ほどある。全て素掘りで、上端径1メートル前後、深さは2メートルを超える。埋土から珠洲焼などの遺物が出土した。また、建物群の南西側で焼けた骨片が出土している。墓と思われる長径1.5m前後の長方形土坑が点在する。墓域形成があった可能性がある。遺構集中区の西側には大溝があり、この溝はムラの境界だったと思われる。遺物は、中世の土師質土器・珠洲焼・青磁・白磁や石製の硯・砥石、鉄製の刀子(とうす)・鎌などが出土した。掘立柱建物・井戸を溝で囲む区画がいくつか集まり、中世集落が形成されていた景観が浮かび上がる。

官衙があった?下野田
隣接する下野田にある延命寺遺跡からは木簡が発掘されている。木簡には「天平8年」(736年)の年号や「野田村」という文字が書かれていた。また、帯金具など官衙の遺物があり、この地が飛鳥時代には地域の有力者が住み、奈良時代に入ると地方役人が行政の一端を担っていたことが分かる。

すでにムラがつくられていた5世紀
下割遺跡、堂古遺跡の発掘では、古墳時代(3世紀末~6世紀末ころ)の遺構、遺物から江戸時代の土塁や掘立柱建物、井戸・用水路などもみられた。ムラムラは、洪水をはじめとする自然環境の変化に対応しながら、繰り返し「ムラ」をつくり、生活を営み、生産活動を営んでいた。遺物からうかがえるように、他の地域との交流があり、多くの影響を受けていた。その他の地区内の遺跡としては、鎌倉・室町時代を中心とする集落と生産遺跡(水田)が確認された鶴町字清水田の清水田遺跡、中世の倉庫跡が確認された高森の保坂遺跡等がある。多くのムラの姿は、下割遺跡や堂古遺跡で確認されたものとほぼ同様だったのではないだろうか。

※引用・参考
・現地説明会資料「下割遺跡」Ⅳ~Ⅵ(2009、2010、2011)、「堂古遺跡」Ⅰ(2014)他
・『埋文にいがた』(新潟県埋蔵文化財調査事業団)39-41、46、68、84、88他、関係各号