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希望燃ゆ 諏訪の里

希望燃ゆ 諏訪の里 [第9回] 7.「慶長2年越後国頸城郡絵図」に現れた村々

1597(慶長2)年の「越後国頸城郡絵図」といわれる古地図は、岩船郡と頸城郡の東部しか現存しない。この古地図は、豊臣秀吉が全国から集めた郡絵図の現物として、貴重な文化財であり,重要文化財の指定をうけている。
 【慶長2年越後国頸城郡絵図 米沢市蔵 東京大学史料編纂所】
  下図は、新潟県埋蔵文化財調査事業団「下割遺跡現地説明会資料 2009年8月」より転載


 (1)地図に示された古い村々
「越後国頸城郡絵図」には、真砂新町(現在の上真砂)、杉野袋、新保(南新保と思われる)、米岡、鶴町、おきのへ(現在の鶴町か)、西原(現在の東原)、堀内(堀之内、現在の諏訪)高森の各村々が示されている。現在の中真砂辺りが上真砂村となっている。


 □上杉謙信の関東出陣の主要街道だった魚沼街道
  春日山城―府中大橋または木田の渡し―真砂新町―嶋倉村(府内より20里)―安塚町(嶋倉より15里)―法師峠(安塚より20里)―魚沼へ


『頸城郡絵図』に示されている町は、真砂新町のほか、安塚町・くとの町・花か崎町・下上新町・柿崎町・八崎町の七ケ所に過ぎず、村全体の2%程度である。『頸城郡絵図』に記されている「町」は、上杉氏が認定した「町」の可能性が大きい。
真砂新町は、魚沼街道沿いにある。この街道は、上杉謙信の関東出陣の主要街道だったといわれている。絵図では、道を挟んで両側に妻入りの家が立ち並ぶ街村として描かれている。中世以降、交通の要所として南北朝の時代には新田義貞の勢力下にあり、たびたび足利氏との戦闘が行われたところともいわれる。絵図には、各村の数値情報も記されている。真砂新町は「家八拾壱間(軒) 是ハ御休ノ由申石米無 真砂新町上」と示され、無年貢地で宿場の役割を担っていたことが分かる。他の諏訪地区内の村々は、次のように書かれている。

*各村には、そこを知行する家臣=給人の名と検地の結果が示されている。本納は、家臣に申告させた従来の定納高、縄ノ高は検地の結果あらたに確認された石高である。ここでの検地結果は、いわゆる太閤検地の結果が記されている。家数と人数は実際の数ではなく、村別に賦課される課役や陣夫・普請人脚の徴発の基礎となるたてまえ上の数字である。
※ 『上越市史 資料編3 古代・中世』pp.740-741、p.747、p.751 上越市(2002.3)

 

□ 勝名寺墓地に残る往時を伝える「板碑(いたび)
16世紀の末頃(慶長4年?)に現在地に移転されたという「髙龍山勝名寺」の墓地に残る「板碑」は、東北地方に広く分布する凝灰岩を加工したものである。高さ45cmの板状の塔婆に、薬研彫りの梵字や地蔵様が彫られている。頂点は三角形で笠のように突き出ている。底辺には南北朝時代の特徴である「二条線」が彫られている。板碑は、「板石塔婆」ともいわれる。鎌倉時代から室町時代にかけて、追善や供養の目的で作られ、関東地方に多く見られるという。板石塔馬婆ともいう。※『日本史辞典』第2版p.64 角川書店(1984.10)