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希望燃ゆ 諏訪の里

希望燃ゆ 諏訪の里 [第17回] 15.諏訪村の誕生と閉村

大小区制の実施 1873(明治6)年に柏崎県、1876年に相川県が廃され新潟県に合併した。新潟県は全県を28大区、246小区とし、それぞれに大区長、小区長が置かれた。小区は組に分かれ、組には戸長が置かれた。諏訪地区・北諏訪地区は、関川以東、保倉川以南を範囲とする第8大区、小9区に属した。
頸城三郡の成立 1878(明治11)年7月22日、郡区町村編成法が発令され、翌年4月に施行された。この法律の施行で、それまでの「大小区」が廃されて、頸城郡が東・中・西の三郡に分かれた。中頸城郡役所は高田下小町の加賀屋に置かれた。
郡が三つに分かれたのを機会に、同一郡内に同じ名の村を無くし、混乱しないようにするため、1885(明治18)年に同一郡内に同一の村名をもつ村には、村名の上に東西南北、上下などの文字を付けて区別することになった。諏訪地区に関わる村名では、田中村は「北田中村」に、堀之内村は「下堀之内村」となった。
連合戸長役場 1884(明治17)年5月7日、政府は戸長制度の改革を行った。この改革では、戸長を知事の任命による官選に切り替え、平均5町村500戸に戸長1名を置く制度に変更した。これにより、戸長役場も連合戸長役場に再編されるものがあった。この改革で、政府の国策に忠実な行政官を戸長に任命することが可能になった。連合戸長役場は、郡と村の中間行政機関の役割を担った。即ち、いくつかの村々の連合をつくり、そこに官選の戸長を置き、村々の戸長の意見を聞いて、その処置を講ずることとなったのである。8月28日の布達には次のように記されている。
・戸長役場ノ儀ハ、ナルベク寺院又ハ学校等便宜ノ箇所ニ開設スベシト雖モ、若シ民家ヲ借上ゲ仮設スルトキニハ、其区画ヲ厳ニシ、入口等ハ民家ト混同セザルヲ要ス
この改革で生まれた諏訪地区関係の「連合戸長役場」は次の通りであった。


<中頸城郡上真砂村外15ケ村連合戸長役場>
  鶴町村・東原村・荻野村・下堀之内村・高森村・南新保村・北新保村・上真砂村・杉野袋村・飯塚村・上千原村・川端村・東中島村・下真砂村・福橋村・中真砂村
<中頸城郡川浦村外19ケ村連合戸長役場>
  米岡村・北田中村・重川新田村・川浦村・野村・下中村・角川古新田・角川村・新屋敷村・四辻村・田村・中野村・横山新田・水科村・窪村・法花寺村・稲原村・宮崎新田・鴨井村・水吉村


諏訪村の誕生・「大字」地名 1887(明治20)年に入り、政府は戸数・地価その他様々な調査を行った。また、県は町村や郡長の意見を聴取、諮問したうえで原案をまとめ、1889(明治22)年2月28日に内務大臣の認可を受け、3月6日に県令を布告、4月1日に市制・町村制が施行された。この市制・町村制の施行で、新潟県全県で3,777町村の市町村が、1市(新潟市)、46町、769村の合計816となった。減少率は81.2パーセントで全国第3位だった。なかでも中頸城郡は、90.9パーセントと県内第一の減少率だった。
合併によってできた新しい町村名は、昔の郷の名称、または「良い名」を付けるようにという指示があった。津有村・高士村・新道村などは昔の郷名をとどめた名称である。その他、親睦融和への願い(大和村他)、神社の社号(斐太村他)、住民の希望(高志村他)等によっている。
新しい町村ができたことでそれまでの村(邑)は、「村」という言葉を取り除き「大字(おおあざ)」と呼ぶことになった。このことで「上真砂村」は、「大字上真砂」、「杉野袋村」は「大字杉野袋」等のようになった。
町村制の施行で、今も使われている多くの地区名が町村名として命名された。この地域の20村1字は、村社諏訪社の称号をとって「諏訪村」として発足した。「諏訪村」地名の誕生である。村名の命名に当たり協議を重ねた結果、それまでの各村々の村社の多くが「諏訪社」であったことで、村名を「諏訪村」としたという。


役場は上真砂におかれ、初代の村長には米岡の野俣佐平治が就任した。
分村の願い出と却下 諏訪村ができて間もなくの1889(明治22)年6月、新しい諏訪村に不満を持った鶴町・東原・荻野・下堀之内・高森・野田坪は「鶴町外五ケ大字ハ、他ト水利灌漑ヲ異ニシ、従テ百般ノ事、経済ノ支弁其ノ途同フセズ為メニ 人心協和セズ以テ分離独立ス」という理由書を付けて、当局に分離独立を願い出た。この願い出に対し、当局は「分離独立ノ儀ニ付願ノ件聞届ケ難シ」として取り上げなかった。鶴町ほか6ケ大字は、9月及び11月に再度願い出たが「該部落ヲ分離スルトキハ全体上不益将来ノ得策ニアラズ分合実施日尚浅キニ付、人心和合云々ハ単ニ苦情デアル」として結果は変わらなかった。

分村合併、そして閉村 1953年(昭和28年)に町村合併促進法が施行され、新制中学校1校を管理するのに必要な規模としておおむね8,000人以上の住民を有することが標準とされた。この法律の施行に伴い、直江津町はまず、関川右岸の有田村、八千浦村、保倉村、諏訪村の4か村に対して併合交渉を行った。有田村、八千浦村、保倉村については問題なくまとまったが、諏訪村南部(諏訪地区)は高田市への合併を希望し、ついには分村して北部(北諏訪地区)8大字のみが直江津市と合併した。この合併により、直江津町は、1954(昭和29)年6月1日より市制を施行、「直江津市」となった。
高田市との合併を望んだ諏訪村南部(諏訪地区)は、分村から8カ月後の翌1955年2月1日に高田市に編入合併した。合併時人口は、1,646人だった。この2月1日には、三郷村、和田村の一部、津有村、春日村も高田市と合併した。諏訪村と高田市との合併を祝って、上真砂地内の「勝名寺~郵便局」間の県道で旗行列が行われた。こうして、1889(明治22)年から66年間続いた諏訪村は、閉村した。高田市編入後の1962(昭和37)年8月15日には、大字荻野と下堀之内は合併し、大字諏訪と改称した。その後、2006(平成18)年に、重川新田(下坪)が、「米町町内会」として独立して諏訪地区に属した。
 ※ 引用・参考 『高田市史 第3巻』11-38 上越市(1980.6.20)