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希望燃ゆ 諏訪の里

希望燃ゆ 諏訪の里 [第21回] 17.出征と鎮魂

【出征】明治維新以降、富国強兵を国是として近代化を進めてきた我が国は、1890(明治23)年に忠君愛国をもって究極の国民道徳とする教育勅語を発布し、天皇制の精神的・道徳的支柱とした。
江華島事件をはじめとする朝鮮半島をめぐり日清両国は、1894年に日清戦争として全面的に争う。1904年には、大陸進出を目指す我が国は、ロシアと日露戦争を戦う。その後も大陸の権益をめぐっての戦乱の時代が続く。柳条湖事件に始まる満州事変、満州国の独立、盧溝橋事件に端を発する日中戦争、太平洋戦争の開戦と、戦場は大陸から北方、南方へと拡大する。1945(昭和20)年8月の敗戦までの間、多くの人々が戦場へと旅立ち、多くが帰らぬ人となった。また、銃後を守る人々も多くの苦労を強いられていた。人々は、「忠君愛国」思想のもとに日々を過ごした。
武運長久祈願と壮行 出征に当たっては、家族・親戚で国旗を掲げた玄関で別れを惜しみ、神社で武運長久を祈った後、音楽隊の先導で行進、稲田橋を渡って左に折れ、北城神明宮で「村当局と軍人」が神前に額づき武運長久を祈願、壮行の辞の後万歳三唱を行って別れた。歓送は1937~1942年頃前後が盛大だったが、戦争が長引くに従い、見送る距離が短くなり、歓送方法は簡素化されていく。
写真は、太平洋戦争開戦のころに諏訪村村内で撮影されたものと思われる。期日・場所は不明。

 

 

 

【鎮魂】  
諏訪地区の戦没者<『想出の写真帳』諏訪村遺族会編(1950年)をもとに作成>

忠魂碑(上真砂)

1942年7月16日 除幕式の日の忠魂碑

忠魂碑は、もともと戦没者の霊を慰霊・顕彰するために町や村(地方自治体)で建立された石碑をいう。その歴史は、明治時代の戊辰戦争まで遡ることができる。全国的に広まったのは、日清・日露戦争以降である。大字上真砂の「忠魂碑」は、「諏訪村」の戦没者を祀っている。遺族会により毎年7月17日に慰霊祭が行われる。忠魂碑は、皇紀2600年(1940年、昭和15年)記念として、3年の歳月を経て1941年7月17日に建立・除幕式が挙行された。忠魂碑の文字の揮毫は、陸軍大将男爵荒木貞夫。荒木貞夫は、皇道はの重鎮。1931(昭和6)年より犬養内閣・齋藤内閣で陸軍大臣。1938(昭和13)年〜1939(昭和14)年、第1次近衛内閣・平沼内閣の文部大臣として国民の軍国化教育に邁進した。
諏訪地区の戦死者 地区の戦死者数は、『想出の写真帳』には61人と示されている。戦死者の60%が30歳未満を占めている。また、太平洋戦争末期の1944(昭和19)年以降の戦死、戦病死者が44人と、全体の72%を占め、この時期の厳しい状況をうかがうことができる。れぞれの状況によって異なるが、多くは村立上真砂校または上千原校で諏訪村葬、その後に私葬が営まれている。中には、慰霊祭、合同葬が別に行われているものもある。代々之墓とは別に、墓石や慰霊碑を建て、顕彰されている例も多い。

 引用・参考 『想出の写真帳』諏訪村遺族会編(1950.9.15)