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希望燃ゆ 諏訪の里

希望燃ゆ 諏訪の里 [第22回] 18.「諏訪村便り」が伝えようとしたこと

諏訪村銃後奉公会 祖国を遠く離れて戦闘を続ける兵士にとって、郷里からの便りは何よりの楽しみであり、励ましであった。諏訪村は、尚武会・在郷軍人会・軍友会・国防婦人会・青年会により「諏訪村銃後奉公会」(「諏訪村銃後会」)を組織し、村出身の兵士に対して「諏訪村便り」を送り続けた。「諏訪村便り」の創刊は、1937年10月25日となっているので、銃後会の発足もこの頃と思われる。

 

太平洋戦争必勝祈願祭の開催を通知する「諏訪村便り」

諏訪村便り 「諏訪村便り」は、1937年10月から1944年2月24日の153号の発行まで、ほぼ各月2回のペースで発行され戦地に送られている。この便りには、農作物の作柄、銃後後援の様子、村民の出征や帰還、戦死者の慰霊祭や村葬のこと、傷病兵の近況、村民の訃報など、銃後の村のようすが記載されている。通常は「ガリ版刷り」で作成された6ページ程度の編集である。特集号の第10号と第28号は活字で印刷されている。この「諏訪村便り」によって、多くの兵士はふるさとの近況を知り、故郷を思った。7年間近い歳月の中で、この「諏訪村便り」が印刷された用紙も、初めのころの薄手の和紙から、いわゆる「ワラ紙」へと変化していっている。紙質の変化とともに「諏訪村便り」の記載内容からは、戦場にならなかった農村が戦時体制の中に組み込まれる中で、どのように変化していったのかをうかがうことができる。第10号「慰問文特集」は、諏訪村から出征した兵士の子どもや近所の子どもが書いた「綴り方」を特集している。子どもの目線で捉えた、銃後の生活が示されている。


□兄さん、まんしゅうはさむいでしょうね。こちらも雪がたくさんふって、さむい日がつづきますが、家中かぜ一つひきません。毎日、兄さんのことを話しながら、兄さんにまけないように、一生けんめいはたらいています。お父さんは毎日たわらあみ、お母さんははりしごとです。ねえさんはなわないですし、私は元気で学校にかよっています。この間はしかがはやって、私のくみの子どもたちは、たくさん休みましたが、私はかかりませんでした。トシノはさむいのに外であそんでいます。私の学校ではもうじき がくげい会があるので、そろそろけいこをしています。もうじきそりひきもはじまるでしょう。休みの日には私はあとおしをするつもりです。兄さん家のことはしんぱいしないで働いてください。さようなら。


※ガリ版印刷;ロウ引きの原紙をヤスリ盤に乗せ、鉄筆で文字を刻む。原紙の下に紙を敷き、網をかぶせたうえでインクを塗ったローラーを転がし印刷する。明治時代に考案され、軍や役所、学校などで広く使われた。昭和40年代後半以降次第に使われなくなった。

 

大日本国防婦人会諏訪村支部の記念写真 昭和10年代前半頃の撮影と思われる

婦人会の果たした役割 軍部により総力戦及び国防体制づくりに協力するねらいで1932(昭和7)年12月に組織されたのが「大日本国防婦人会」である。出征軍人の歓送迎活動が主な事業だったが、婦人層への国防精神の強化活動に大きな力を発揮した。1939(昭和14)年には諏訪村内の国防婦人会、愛国婦人会の会員が九つの分会に分かれて高田陸軍病院に慰問、勤労奉仕作業に出て、洗濯・掃除・裁縫等を行った。また、一部の分会は当時行われていた飯田川改修工事に従事し、得た労賃を諏訪村銃後奉公会に寄付している。また、他の分会では、上真砂校で新作映画を上映して収益金の一部を同会に寄附するなど様々な銃後奉仕活動を行った。

 

 

諏訪村銃後絵葉書 1938(昭和13)年6月に、銃後奉公会は「諏訪村便り」に加えて、「応召兵士の家族の写真報告」を行っている。当時、写真撮影に取り組んでいた寺田泉治(米岡)に依頼、各戸を訪問して撮影した家族の写真を、各人に送っている。
1939年に入り、銃後を守る家族とともに、「村のようす」の報告が計画される。11月に5枚組の絵葉書「諏訪村銃後風景」を、続いて翌年6月に7枚組の「諏訪村銃後風景」を出身の兵士、村民に配布している。いずれも残されているものは僅かである。
1940年8月の「銃後風景」(7枚組)の内容は、次のようなものである。写真には簡単な説明が付けられている。(北諏訪地区で撮影の七ノ四・六・七は略)

 

 

七ノ一 鍛錬馬が最近発明された藁靴を履いて、易々雪中訓練をやってゐます。此の日は、3月24日、雪はまだ3尺ほどあります。事変下の馬は、悠々雪を征服することになりました。

 

 

七ノニ 裃縞の木綿着物に、モンペーをはいた娘さん達のイキナ田植え姿よ!! 身も軽く、心も軽く、世間話に興じつつも、セッセと苗を植えていきます。

 

 

七の三 上真砂校託児所の子供達です。田植えのせわしい最中、毎日、五、六十名からの子供が集まります。午前と午後におやつを貰うこと、唱歌や遊戯を習ったり、砂遊びをしたりすることが、子供達にとってどれほど嬉しいことか、お二人の保母さんは、監督に教育に、チットモ隙がありません。

 

七の五 七月十七日の午前九時、学校のサイレンと、火の見の半鐘がけたたましく鳴って、敵機の空襲を知らせました。軈(やが)て、第一、第四両部の消防部が出動しました。役場前に投下された焼夷弾を消火する為です。迅速にして果敢な働きにより延焼が防がれました。

 

七の六 去る○月○○日の晴れた朝でした。青山、山川、青山の三君が横曽根の氏神社前に於て、村民多数に送られ、今、征途につく處です。既往を追憶して感慨無量なものがあります。

 

 

絵葉書は、五枚組、七枚組のほか、十六枚組、六枚組のものが作成されたようであるが、一部が残されているだけで、作成年月、全体の構成は不明である。一部が残っている1941(昭和16)年秋の発行と思われる「十六枚組の絵葉書」には、次のようなものがある。

  • 県立高田農学校、直江津農商校生徒の田の草取り風景(「勤労報国」)
  • 諏訪村青少年団の結団式(上真砂国民学校校庭)
  • 昭和16年7月17日忠魂碑除幕式
  • 昭和16年5月8日上千原国民学校校庭での諏訪村警防団員の分列式
  • 昭和16年5月11日上真砂国民学校並びに青壮年第一分団合同の陸上大運動会
  • 飯田川改修工事で架け替えられた東中島~上千原間の橋
  • 森田執行官による四カ村の閲兵 点呼風景
  • 上千原青年学校女生徒の「報国農場」の手入れ。さつまいもの畑  その他(4は不明)

絵葉書は、いずれも「勤労報国」「報国農場」「限りなき力強さ」「錬成されている青少壮年」等を表現している。前線で任務に就いている兵隊に、「銃後の生活は大丈夫」という安心感を与え任務遂行への士気を高めるとともに、銃後の国民と前線の兵士の一体化を促す、いわゆるホームフロント政策の一端を担っていたのである。

戦意高揚のためのプロパガンダ 日中戦争が長期になるに従い、戦費調達の必要性は一層増してくる。銃後の後援の強化策がとられていく。「諏訪村便り」の中には、「経済戦強調方面同情週間」「銃後後援強化週間」「日本精神発揚週間」といった取り組みが行われたことが示されている。           ※ プロパガンダ=思想・主義の大がかりな宣伝

〇「経済戦強調方面同情週間」について「諏訪村便り」NO.32(1938.12.26)は、次のように示している。
広東・武漢攻略後の内外の情勢に対応して体制を整え、聖戦初期の目的達成に努むると共に、隣保相扶の醇風に則し、歳末に於ける扶養者の援護に万全を期するというのが此の週間の目的です。実施要項は(1)生活の刷新(2)物資の節約(3)生産力の拡充(4)貯蓄の実効(5)不遇同胞の援護等です。実施案としては、「年末年始の贈答を廃止し」「忘年会新年会を差控え」「新年の奉祝は厳粛質素にし」「買い溜めを為さず」「衣類調度品の新調を見合わせ」「公定価格を尊重」「高率貯蓄を実効」「国債債券に応募」「浄財を出捐して不遇者を援護し」「全村に亘り労力調整計画を確立する」等がその主たるものです。(略)

〇1938年10月の「銃後後援強化週間」は、「諏訪村民各位に告ぐ」としてチラシを作成、強化週間の日程を示している。
 (略)今回政府が、国民精神総動員の実施として、銃後後援強化週間を定めて、全国民に訴え、一層のその認識を深むると共に、戦死者、戦傷病者に対し感謝の念を高め、あわせて軍人遺家族に対する援護の徹底を期することになりました。(略)村民挙ってやりませう。ああ漢口も、皇軍の涙ぐましい進撃によって遠からず陥落するではありませんか。
 ・第一日 ○月○日 黙祷日 戦没軍人の英霊に対し、此の日の正午に、その場に於いて一斉に黙祷を捧ぐること
 ・第二日 ○月○日 祈願樋 朝六時を期し、字民一同が氏神社に集合参拝して、出動軍人の武運長久を祈願すること
 ・第三日 ○月○日 困苦日 此一日は、出動軍人の労苦をしのぶため、出来るだけ不自由をすること
 ・第四日 ○月○日 貯金日 冗費を節約し、此の日十銭以上必ず貯金し、他日銃後会へ寄附又は国防献金をなすこと
 ・第五日 奉仕日 軍人諸家族の仕事を、例え1時間なりでも、手伝いして上げること
   ・第六日 勤労日  (略)

〇1944(昭和19)年2月の「精神発揚週間」の情宣チラシは、次のように示している。
事変が起ってから第三年の紀元節を迎えるに當り、「日本精神発揚週間」が設けられました。これは我が国固有の精神を明らかにして、ますます日本精神の発揚をはかり、以て東亜新秩序の建設に進むべき国民の覚悟を深らしむるのが目的であります。(略)
 ・2月5日  神祭り  ・2月6日 氏神社詣り ・2月7日 寺院詣り 
 ・2月8日  勤倹貯蓄 ・2月9日 勤労作業  ・2月10日 激励的慰問文発送
 ・2月11日 国民奉祝

銃後においても、勤労奉仕の実施、一人一銭献金、国民貯金組合の設立(各戸その分に応じて毎月定額を貯金)等の貯蓄・献金、「勤労奉仕の歌」「物質的節約の歌」「貯金の歌」「美談俳句」「戦争にちなんだ福引の実施」その他、国民が一体となっての戦時体制確立のためのプロパガンダが、あらゆる方法で行われたのである。
 ※引用・参考 「諏訪村便り」諏訪村(10~1944.2)上越市公文書センター
         絵葉書『諏訪村銃後風景』諏訪村(1930.11、1934.8)