MENU

希望燃ゆ 諏訪の里

希望燃ゆ 諏訪の里 [第23回] 19.戦時中の配給は如何になされたか…村の配給機構… 

配給制度 戦時経済下では「統制配給」が行われた。1938(昭和13)年の綿糸配給統制規則によって国内綿糸の消費量が規制されたのに始まり、以後、1939年の電力調整令、1940年の砂糖・マッチの切符制、1941年の米穀配給制、1942年の衣料総合切符制と続き、日用品から生産資材に至るほとんどの物資が統制配給の対象となった。代表的方法は、各世帯に人数に応じた切符をあらかじめ交付しておき、切符と引き換えに物資を渡す「切符配給制(切符制度による配給)」であった。しかし、戦争の激化により次第に配給条件さえ満たされないことも多かった。(コトバンク「配給制度」による。)
「諏訪村便り」NO.117(1942年5月31日)は、「諏訪村の配給機構」を特集している。執筆は、諏訪村役場経済係主任大館正周である。この特集により、諏訪村の統制配給の様子をうかがうことができる。(原文は、敬体で書かれている。)


【衣類】
 労働作業衣用綿製品(紺織・紺絣作業シャツ、作業ズボン、乗馬ズボン)は、1年間に、紺織・紺絣作業シャツ、作業ズボン、乗馬ズボンと交互に配給になる。綿製品の配給所は、川崎直治方(上稲田)。労働作業衣用綿製品以外の品物の購入は、昭和17年2月1日施行の「衣料切符」による。この切符は、農村は80点で1年間に一人1枚だけ使用できる「点数切符」である。妊婦、婚姻の整った女性には特別切符が交付される。綿縫糸も昭和16年12月より配給制になっていて久保田商店が配給所になっている。

【軍手、地下足袋】
 軍手は、普通、万年ともに直江津共同配給所(山治)より購入する。月ごとに県から購入票がくると村で購入券を発行する。地下足袋は、県から購入票が月々来る毎に直江津二カ所、古城二カ所より交互に配給を受けた各自が購入する。産業組合からも配給される。

【食料品】 
 砂糖は、昭和15年8月以来配給制となっている。本村の配給所は、岡本(上千原)、久保田(上千原)、岩島(北新保)で、商業組合から来る砂糖を配給する。また、産業組合からも配給される。二つの系統により月々1回の配給を受ける。これら一般家庭用のほか、乳児の母乳不足の場合、冠婚葬祭用などの特別用の交付がある。これまで村で月々発行した切符から、県より1カ年使用できる回数購入票が交付され、各世帯に一枚ずつ交付された。
 米の配給は、米作をしていない者、米作をしていてもなお不足している者に行っている。主に産業組合に集荷された村内の生産米を一定の基準によって配布する。世帯主は、家族何人で一日の数量、何升何合と示した購入票を持って、15日毎に組合より購入する。糯米も七分搗きの黒い米で、時折配給する。
 小麦粉は、米と同じように岡本(上千原)、久保田(上千原)、岩島(北新保)の各配給所より2~3か月毎に、一般家庭に配給される。澱粉も小麦粉と同じ店で配給する。
 乾麺(冷麦、ウドン)は、県内産のものが時々配給されてくる。これは主として飯米の配給を受けている家庭に割り当てる。
 は、1月1日より通帳制が実施され、林(米岡)、岡本(上千原)、久保田(上千原)、産業組合の4か所で配給を行っている。各世帯1枚の通帳が渡されている。月々一定の家族数に応じた数量を購入する。3か月分をまとめて購入することもできる。通帳以外に、味噌・醤油・漬物(大根漬菜)等に要する塩は、加算割り当てとして必要な月に配給されることになっている。
 塩干魚(鮭・鱒・鰊)は、季節毎に商業組合、産業組合の二本立てで配給され、農村民の栄養向上に効果を挙げている。
 も昨年(昭和16年)4月以来不時用に対して切符制が実施され、村へ月々一升券が何枚というように配給になる。婚礼・葬式・法事・祭・入除隊・神酒等に対して交付する。大体、中里酒店(上真砂)より購入する。間近に迫った田植え時期には、労働用として特別配給されるらしい。
 食油は、年4回に分けて配給になる。林(米岡)、岡本(上千原)、久保田(上千原)、岩島(北新保)、青山(横曽根)という5軒の商店で、配給する。主として家庭用である。寺院には、燈明用として同じく配給される。
 菓子は、昨年1941年12月以来、村内商店8カ所へ配給になってくる。主として乾菓子(ビスケット、米菓類)である、子供には欠くことができないので、近いうちに切符制が実施される予定だ。

【釘・針金】年間に4回くらい、岡本(上千原)、久保田(上千原)を通して村内に配給される。数量は一般家庭と職人組合を区分して配給される。一般家庭分は少々だが欠くことができないものだ。

【木炭】産業組合、商業組合を通して年4回に限って配給される。純消費村である諏訪村には多く配給されている。県からは事務用、業務用、家庭用と区分されて割り当ててくる。

     全ての品物の売買は、公定価格で行われる。例を示せば次のようである。

     また、衣類は点数が決められている。

「諏訪村便り」は、配給の様子を示した後、戦場の兵隊が安心するようなコメントを載せ、銃後民の生活に心配なく奮闘することを促している。

 皆さん、銃後民は配給制によって品物の尊さを知り、生活の計画を上手に実施することができました。決して不自由はありません。勿体ない生活、皆さんに対して申し訳ない心地です。(略)皆さんの努力によって益々銃後民の生活が潤って行くことを信じます。しかし、配給制は依然といて実施されていくことでしょう。日本人元来の品物尊重主義が一層加えられて行くことでしょう。皆さん、銃後民の生活に御心配なく懸命に奮闘してください。

「決して不自由はありません」の表記の裏の厳しい現実を「諏訪村だより」第33号(1939年1月22日)は、既に次のように示している。

 ゴム靴の不足から雪中の昨今、わら靴の使用者が大変増えてきている。軍隊でも、下駄や上靴の代用としてワラ草履を使用することが決定。当諏訪村にも3月まで、約千足の草履を納入するよう割り当てになりました。

 ※引用・参考 「諏訪村便り」117(1942.5.31)、「諏訪村便り」NO.33(1939.1.22)