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希望燃ゆ 諏訪の里

希望燃ゆ 諏訪の里 [第27回] 21.伝えられた予祝芸能「春駒」

「春駒」の奉納 米岡神社での奉納と思われる(昭和10年代か?)

 

米岡で行われていた「春駒」は、三和区岡田から伝えられたといわれている。伝えられた時期は、定かでない。1980年代の中ごろまでは、予祝芸能として、結婚式や祭、その他の祝い事の場で演じられた。また、神事芸能として奉納されたこともあったが、根付いたという記録はない。上の写真は、米岡神社に奉納された時のものだろうか。太平洋戦争開戦前後のころに撮影されたものと思われる。保存会も作られていたが、春駒を受け継いだ人たちの多忙化、高齢化などで解散し、過去のものとなった。青竹、しめ太鼓、花笠・・・などが残されている。
舞の形は、女役(嫁)一人、男役(才蔵)二人で、女役は花嫁姿で手に鈴をもつ。男役は、青竹を叩きながら中腰で嫁の周りを舞う。 

保存されている青竹、花笠、〆太鼓

 

上越地域で行われていた春駒の多くは、「お祝い」「娯楽」「慰安」として上演された。三和区岡田に伝わる春駒は、風巻神社の神事芸能、奉納芸能として今日でも行われている。8月20日に奉納される。
・舞の形;女役(嫁)一人、男役(才蔵)二人。女役は花嫁姿で手に鈴をもつ。男役は青竹を叩きながら中腰で嫁の周りを舞う。
・由来;江戸時代中期(約200年前)に信州小布施からの旅芸人により伝えられたという。女役(嫁)一人、男役(才蔵)二人を基本に「地方」(じかた)という囃(笛、三味線、太鼓)がつく。
・1793(寛政5)年には、隣村との間でいざこざに発展し、わび状を出して決着するほどの熱心な取り組みが行われていたという。

□岡田の春駒唄(太田空賢氏採話)※ 抄 (『旅芸人のフォークロア』65-66)
一、春の初めに春駒勇む 夢に見てさへよいとは申 合わせて繋ぐは乗馬の駒ヨ
一、月もよし日もよし蚕飼(コガイ)もよろし コガへに取てはみのヽ国よ みのヽ国から おはりの国よ
一、をはり郷里(コウリ)はおね山こ志の とよ原種とてサテモヨイ種だ サテモヨイ種だとヨウシャニ集め
一、かへめの女郎衆にお渡し申 かへめの女郎衆ハソレ受取りて サテモヨイ種だと ホメ喜んで
一、右のこわきに三日三夜 左のこわきに三日三夜 両方合わせて六日六夜
一、一トハキはけバ千子の蚕 二タハキはけバ万子の蚕 三ハキはけば皆ハキヨセル
一、サラバ此子に何ヲバくわしょ 岡より東に小山ガゴザル 小山あたりは皆桑畑
一、宿の娘にコマケタはかせ (この間13行略)
一、金蚕(コ)銀蚕の見事ナマイヨ 糸め引出すおりなすオリめ アヤモニシキモ見事に出来た
一、奉(マツ)るミテグラ五色の旗で 駒のイナゝキ鈴勇ましく 神のみくらに皆おどりこむ

参考 春駒の発生

発生の由来は不明だが、次のようなことが言われている。
・農民が古くから行ってきた「田遊」「田楽」に起源する多くの予祝芸・祝福芸
・本来、農山漁村に住んでいた者が、そこを離れたのちに身に着けていた芸で生活費を稼ぐために門付芸などを行う旅芸人となり発生したといわれる予祝芸・祝福芸
・養蚕農家を回り、蚕業の予祝を行う予祝芸・祝福芸
古い時代には、春駒は各地の農村で行われてきたのだろう。上真砂の諏訪社には、「鈴」が残されている。この鈴を手に「春駒」が舞われていたのだろうか。

上真砂 諏訪社に残っている春駒の鈴

 

※引用・参考
・『旅芸人のフォークロア』62-66 川本祥一著 農山漁村文化協会(1998.3.20)
・『上越市史 通史編7 民俗』358-360 上越市(2004.9.30)