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希望燃ゆ 諏訪の里

希望燃ゆ 諏訪の里 [第28回] 22.楽しみだった寄り相撲と盆踊り

盛んだった草相撲 江戸時代に入ると、職業としての相撲が隆盛する一方、人々の娯楽としての草相撲が発展する。なかでも、祭りなどの祝い事で催される村々の力自慢の青年が集う奉納草相撲(=寄り相撲)は、村人にとっての娯楽であり、出身の強豪力士の応援に熱狂し、勝負を観戦した。明治時代の前半に活躍した力士の石塔が残されている。

玉勇墓(大字米岡 川上勝正宅)  
 右側面 石津大治郎
 左側面 明治5年拾月拾八日死去 玉勇要吉
 裏面  明治弐拾五年辰四月十八日建立
  上段 発起人 若浦六三郎、同 玉岩宇平治、同 四越元右衛門、
     同 玉越和太郎、同 高戸乙吉、同 妙嶽善八、同 錦嶋治郎八  
     若者中 若嶋要介

  下段 同 川上富作、同 川上松助、同 名崎與市、同 金子源作
     同 林幾五郎、同 川上菊治郎

緑嶋跡(大字米岡 野本マサ子宅) 
     化粧まわしが、本覚寺(米岡)本堂に掲げられている。
  裏面 明治二十二年十一月二十八日死去 野本長太郎

相撲碑(大字米岡 大堀功宅)
     力士名は、裏面の初代~三代か?
  裏面 初代 大堀源十郎、二代 大堀六三郎、三代 若柳五作
     當村 世話人 相撲中 明治四拾年拾月建立

 

 

諏訪地区では、米岡(米岡神社境内 8月29日)、上真砂(真砂堰下の広場 9月9日)<北諏訪地区は、上千原(8月23日)、横曽根(9月19日)>で開催された。
終戦後の1946(昭和21)年頃から1960年代頃(昭和30年代前半)にかけて、戦地から戻った若者や海外から引き揚げてきた若者が農村に居住、青年会活動は活況を呈し、寄り相撲は盛り上がりを見せた。米岡神社で奉納相撲が行われる8月29日は、神社が火災災害から再建された日でもある。境内には、土俵と観覧用の桟敷が作られ、多くの村人が楽しんだ。勝者には地域の有志から提供された賞品が贈られた。青年会が主催した。

 

 

 

 

 

 

上真砂町内会館には、太平洋戦争終戦直後の一市三郡相撲普及会(昭和21年8月=上稲田・諏訪神社)、三市三郡相撲普及会(昭和29年=新井町総合グラウンド)、相撲普及会四市三郡(昭和30年=居多神社境内)、高田相撲連盟(昭和33年=高田市営土俵)の番付(コピー)が残されている。上位の力士名の中に、昭和21年の番付には初嵐盛治(上真砂)、29年~30年の番付には、初祝義雄(上真砂)、新緑登(南新保)、寺田勇(自衛隊・米岡出身)が記されている。初嵐、初祝、新緑は前頭格となっている。昭和30年頃の寺田勇(米勇=米岡)は、弓取りとしても知られていた。初嵐と初祝は、親子である。これらの番付にはうかがえないが、米岡の米桜(石崎喜男)、玉ノ島(大堀正勝)、板垣義男、川上正勇、丸山徳治なども活躍した。中には、新潟県相撲大会に出場した者もいたという。
取組が終わると、力士たちは簾で囲まれた風呂で砂や汗を流し、握り飯をいただいて帰路についた。夕闇が迫るころ、盆踊りが始まる。
しかし、この寄り相撲も昭和30年代に入るとテレビの普及、娯楽の多様化と農村からの若者の流出で参加者が次第に減少し、30年代後半には姿を消した。 
 ※ 引用・参考 『三和村史 通史編』358-360 三和村(2002.3.25)


寄り相撲のあとで行われた盆踊り 寄り相撲が行われた後、一息ついた夕暮れには、土俵を囲んでの「盆踊り」が行われる。設定や進行、音頭取りのすべてを青年会が取り仕切った。会場中央に立てられた「やぐら」の周囲を回りながら音頭にあわせて踊る形式が一般的であった。戦後しばらくは、太鼓で調子をとり、音頭取りが「越後イタコ」や「八社五社(ヨイヤナ)」の唄を歌い、踊り手が「合いの手」を、声を合わせて入れたという。時には、即興の歌詞を歌うこともあった。

盆踊り大会の経緯 「盆踊り」の歴史は古く、盂蘭盆(うらぼん)の前後に老若男女が多数集まって踊り、年に一度この世に戻ってくる精霊を迎え,また送るための風習に発したものといわれ、室町時代から続いたというが、諏訪地区の記録は未見である。後には信仰性は失われ,多くは娯楽的な踊りとなっている。明治時代に一時衰退したが、大正末期から農村娯楽として奨励され、再び盛んになっていった。昭和30年代後半には、音頭取りが歌うことから、録音された音頭や歌謡曲をレコードで再生して行なうことが主流になっていく。この頃になると、多くの集落で寺や神社の境内でお盆の時期を中心に「盆踊り」が行われるようになった。中には先祖供養の読経をあげてもらってから、踊りを始めるというような「祖霊を迎え慰める」という思いが残されたところもあったようだ。
諏訪地区では、上真砂、鶴町、北新保、米岡、米町などで「盆踊り」を開催していた。「盆踊り大会」がなくなる直前のころは、諏訪小学校のグランドの中央に「やぐら」を組み、地区全体で「盆踊り」を行った。


盆踊り 佐々野宮神社(夷浜)(2000年)(『上越市史 通史編 民族7』p.356より転載)・・・こんなイメージだったのだろうか。

聞き書き「盆踊りの思い出
夕方が近くなると、心がウキウキと高ぶってくる。午後6時半を過ぎるころになると、遠くまたは近くの集落から、スピーカーのボリュウムをあげた音楽が聞こえてくる。三波春夫であったり三橋美智也の歌であったり、当時の流行歌手の歌声が流される。勤務先からの帰り道、バイクを止め、耳を澄ましてスピーカーの音で開催集落を確かめる。近隣の小泉、野村、番町、横曽根、小猿屋等の会場は勿論、菅原神社の踊りにも出かけた。
家に着くと急いで夕食を済ませて、会場に向かう。時には、前日の晩の盆踊り会場で一緒に踊った女性と約束の場所で落ち合い、バイクに乗せて共に行くこともあった。会場は、20~25歳くらいの男女で賑わい、アイスキャンデーを売る店も出されていた。
踊りは午後8時を過ぎるころから始まる。伝統の「イタコ」や「よいやな」も踊ったが、若者に人気があったのは、女性と手をつなぎ肩を組むことのできるフォークダンスだった。八社五社、佐渡おけさ、相川音頭、三階節のほか、歌謡曲も多く踊った。
女性は数人で連れだって会場に来ていることが多かった。すぐには踊りの輪には入らず、木の傍に集まって見ている。気に入った女性に話しかける。初めは「どこから」「どうやって」など差しさわりのないことを話しかけ、踊りに誘う。「お願いします」の言葉をもらい、一緒に踊れば、以降は話が弾んだ。こうして付き合いを深めた人も多い。
午後11時過ぎに、仲良くなった女性をバイクで中郷村まで送り、1時間ほど語り合い、深夜2時過ぎに帰宅、翌朝は眠い目をこすりながら出勤したのも楽しい思いでとなっている。 <70歳代男性(米岡)の回顧談により作成>


出会いの機会としての盆踊 この「思い出」のように、宗教的な意味合いを持ちながらも人々の楽しみの一つであった「盆踊り」は、若者たちの出会いの機会でもあった。自分たちの集落の盆踊りを賑やかにするためには、隣接する他の集落から一層多くの人々から来てもらうことが必要だった。「盆踊り」の期日が重ならないようにし、他の集落の踊りにも一定の人数が参加するように配慮したという。
しかし、昭和40年代に入ると、次第に踊りに参加しないで見物するだけという人が増加してくる。同時に近郷近在からの参集人数も減少してくる。こうして昭和45年頃になると「盆踊り」は行われなくなっていった。

踊りと踊り歌 上越市域平野部の盆踊りの一般的なスタイルは、1950年代中頃までは、イタコとヤシャゴシャだった。最初は通俗的なイタコを踊り、上品なヤシャゴシャで終わるのが一般的だった。上真砂は、1957(昭和32)年頃までは毎年イタコを踊ったが、録音テープが流行ってきたため、炭坑節や佐渡おけさなども踊るようになった。しかし、参加数の減少が続き、社交ダンスに切り替えたところもあったというが長続きはしなった。こうして1970年ころには、「盆踊り大会」は多くの集落で行われなくなった。

機材 「盆踊り」の期日が重ならないようにしたことの要因に、盆踊りで使用するスピーカーやアンプ、プレーヤーなど一式を、電気店から借用する都合もあったようだ。諏訪地区の「盆踊り」開催集落は、主に吉川電気(下百々)、笹川ラジオ商会(稲田)、高倉電気店(川浦番町)から機材を借用していた。盆踊りが集中する時期には、希望する日に機材が確保できないこともあったという。

 

 

 

 

 

 

 

※ 引用・参考 『上越市史 通史編7 民俗』347-358 上越市(2004.9.30)