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諏訪の里ブログ

地区名「諏訪」のルーツ ~五智国分 岩殿山明静院を訪ねて~

このたび「諏訪村」地名の所以となった諏訪大社の祭神「建御名方命」が生まれたという岩殿山明静院を訪問しました。諏訪地区の地名のルーツ、建御名方命がお生まれになったのは、上越市の岩殿山の岩戸と知り〝びっくり〟でした。

□諏訪村という村名の由来は、諏訪神社の「諏訪」
「諏訪村」の誕生 新しい町村制への移行を目指した明治政府は、明治20(1887)年に戸数・地価、その他様々な調査を行いました。また、新潟県は、町村や郡長の意見を聴取・諮問し、それを基に、市制・町村制施行による行政区区分の原案を示しました。翌々年、明治22(1889)年2月28日に内務大臣の認可を受け、3月6日に新潟県令を布告、4月1日に新しい市制・町村制が施行されました。合併による新しい町村名は、昔の郷の名称、または「良い名」を付けるようにという指示があったといいます。例えば、津有村・高士村・新道村などは昔の郷名を村名にしています。親睦融和への願いを込めたものとしては大和村、神社の社号を取り入れたものとしては斐太村等があります。
村名の命名にあたって、私たちの村は、協議を重ねた結果、それまでの各村々(現在の大字)の村社の多くが「諏訪社」であったことで、「諏訪社」の称号をとって「諏訪村」としたのだといいます。

□「建御名方命(たけみなかたのみこと)」諏訪社の祭神は上越市岩殿山の生まれ
大国主命が岩殿山に 神代の時代、出雲の神の大国主命が、ヒスイを求め現在の糸魚川を目指して高志の国までやってきました。大国主命は糸魚川に入る前に、風雨をしのぐ事のできる場所を探したところ、三つの大岩からなる岩殿山(岩戸山)の岩屋へたどり着きます。糸魚川は奴奈川族の勢力下にあり、若くてきれいな奴奈川姫が酋長でした。大国主命は、奴奈川姫と結婚できれば、容易にヒスイを入手できると考え、奴奈川姫にたびたび求婚し、ついに二人は結婚したのです。結婚した大国主命と奴奈川姫は、岩殿山の岩屋
で新婚生活を送ります。

祭神建御名方命 奴奈川姫は子どもを身ごもり、男の子が生まれました。のちの諏訪大明神となる建御名方命の誕生です。やがて、大国主命は出雲へ、奴奈川姫は糸魚川へ戻り、成人した建御名方命はこの岩屋に留まります。そのうちに、古事記の「国譲り伝説」にみられるように、大国主命に高志の国を譲るようと迫りました。しかし、建御名方命はこれを拒み、高志の兵と共に勇猛に戦いましたがかなわず、信州諏訪へと逃れました。以来、建御名方命は諏訪大社の祭神(諏訪大明神)となったとされています。

諏訪神社 岩殿山の岩屋跡地付近には、諏訪神社が祀られています。平安時代の式内社には「阿比多神社」と示されています。社殿は、かつては岩屋の中にあったそうですが、腐朽により正徳3(1713)年に改造、宝暦の地震によっても損壊し、位置は少し横に移動したそうです。

□諏訪村地名に思う
かつての諏訪村、現在の諏訪区、北諏訪区に残る「諏訪地名」のルーツは信州諏訪の「諏訪大社」に、そして諏訪社の祭神「建御名方命」は、私たち上越市五智国分の岩殿山の岩屋で誕生されたということになります。岩殿山縁起を紐解いてみて、諏訪村、諏訪・北諏訪地区の地区名に、何か親近感を感じました。また、外敵に責められても、勇敢に自分の国を守った勇気ある祭神の生誕の地だと誇りに感じたひと時でした。






 ※参考・引用 
 ・「岩殿山縁起」 岩殿山明静院
 ・天台宗岩殿山明静院 ホームページ(縁起、諏訪神社)
 ・「希望も燃ゆ 諏訪の里」34-35諏訪の里づくり協議会 2016.12.10

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