希望燃ゆ 諏訪の里
希望燃ゆ 諏訪の里 [第18回] 16.諏訪村ができたころの商業、営業者状況
希望燃ゆ 諏訪の里2021.11.04
明治時代の営業職種 屋号の中には、かつての職業を意味するものがある。諏訪村が成立したころ、明治時代中ごろの諏訪地区には、農家以外にどのような職業があったのだろうか。「明治25年度村会決議書類綴」の中に、初代村長野俣佐平治名で、中頸城郡長辰野宗治宛に提出(明治25年4月2日)した「営業税雑種税納額表」「営業税納額表」が残されている。この二つの税額表には、以下に示す「職業」が示されている。(地区関係だけを転載)
- 木挽(こびき); 木材を「大鋸」(おが)を使用して挽き切ること、及びそれを職業とする者
- 桶工(おけこう);桶や樽の製造を行う者
- 屋根葺(やねふき)、屋根屋(やねや);屋根を葺(ふ)くこと。または、屋根を葺く職業の人。屋根屋とも言う。
- 黒鍬(くろくわ);土木工事従事者、労務者
商業のようす 村政が敷かれて間もない1892(明治25)年の地区内にはどのような「商家」があったのかがうかがえる。最も多かったのは雑品小売業で、米岡(5戸)・高森(3戸)のほか、鶴町、上真砂、荻野、南新保の6集落にあった。
また、糀室営業と示されている「糀屋」が、米岡に4戸のほか高森、南新保に記録されている。兼業も含め納税が発生した商店が、40戸に達したのは最寄り地域での購買活動が必然だったためと思われる。
職人など 最寄り地域での生活維持のための大工、屋根葺(屋根屋)などの仕事を生業とする者が多くなっている。左官が1戸となっているのは、意外な感じがするが、当時の家屋の形状に起因するものか、隣接の地域に委ねたものかは不明である。「黒鍬」は、今日的に言えば、土木作業従事者であろうか。
職人などの集落的な傾向としては、南新保6戸、上真砂5戸と二つの集落で約48パーセントを占めている。他は、米岡、杉野袋が各3戸となっている。戸数に対する比率では、杉野袋の3戸は特筆できる。内訳は、大工・木挽・左官が各1戸である。
※引用・参考
・「明治25年度村会決議書綴り」諏訪村(3)上越市公文書センター
・「1817(大正6)年度県税営業税雑種税賦課標準表」では、次のように示されている。
【商業】・上真砂(桶小売1、古物商2)、・北新保(材木商1)、南新保(桶小売1、雑品小売1、材木商1)、・高森(酢小売1)、鶴町(煙草小売1、石油1)、荻野(古物商1)、米岡(古物商1、材木商1、酒小売1、物品販売3、玩具製造販売1)【工業】上真砂(大工1、屋根葺1)、杉野袋(左官1)、南新保(桶工2、木挽2、大工1)、鶴町(屋根葺1)、北田中(屋根葺1)、米岡(屋根葺2、鋳掛職1、桶工1、堀工2、木挽1、理髪職1) <注;1892(明治25)年の納税表での基準と変わっているので、比較はできない。>「大正6年度村会決議書綴り」諏訪村(1918.3)上越市公文書センター