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希望燃ゆ 諏訪の里

希望燃ゆ 諏訪の里 [第8回] 6.近世の災害の記録

□洪水
飯田川の水害(洪水)は、1724(享保9)年から1841(天保12)年の百年の間に、27回記録されている。<『牧村史』金子家文書(上千原)による。>このうち半数の14回は春の雪代(ゆきしろ)出水や雪代満水であった。諏訪地区の洪水記録は見られないが、平地で常々水はけが悪く、雪消えの季節には「出水しやすい土地がら」といわれる千原村付近に多く見られる。1841(天保12)年の記録では、新暦の3月11日からの強い南風と雨による雪代取水による被害は大きく、千原村・飯塚村・中島村・中真砂村・川端村等が浸水、民家に泥水が入り被害が大きかった。千原・飯塚・川端・中島の郷蔵も浸水、379俵の年貢米が濡れ米となった。記録は見えないが、上真砂・杉野袋村などでも浸水は免れなかったのではないか。  
※『上越市史 通史編3 近世1』p.150-151 上越市(2003.3.31)

□地震 
近世の大地震としては、1614(慶長19)年の高田領地震、1665(寛文5)年の高田地震、1751(寛延4)年の宝暦大地震、1847(弘化4)年の善光寺地震が知られている。

  • 高田領地震;1614(慶長19)年10月25日(旧暦)に発生、津波が打ち寄せ多数の死者が出たといわれているが詳しいことは分かっていない。
  • 高田地震;1665(寛文5)年12月27日(新暦の2月1日)に起こった。大雪の中の地震で、高田平野の村々では地割れが発生、家屋が倒壊し多数の死者が出たという。資料が少なく詳しくは分かっていない。『三和村誌』では所山田の池松縄家文書をもとに「余震が続き、地割れが発生、積雪の上まで青い色の泥土が噴出している。在郷の村々では、大体のところ石で土台を据えた家は倒壊、掘立の家は少々残った」と状況を紹介している。諏訪地区の各村々の状況も、推し測ることができる。
  • 宝暦の地震;1751(寛延4)年4月25日夜、高田西方の山中を震源と推定される地震が発生した。寛延4年は10月24日に「宝暦」と改元されたので、後に「宝暦の地震」と呼ばれた。この地震については高田藩の記録「大地震の節日記」が残されている。そこには「地悉く裂ける。ただし広狭、浅深ある。所々水湧き出る、または泥砂吹き出る・・・」と記されている。多くの所で液状化現象が発生したのであろう。『三和村誌』では、川浦代官所支配の幕府領の被害状況を、死人109人、潰れ屋145軒(ただし焼失の家2軒を含む)、半潰れ家1,408軒と示している。
  • 善光寺地震;1847(弘化4)年3月24日(新暦5月8日)に善光寺地震が起こっている。震源は現在の長野市(善光寺町)西方の山中で上越地域でも多くの被害が出た。当時、川浦代官所に勤めていた野村の理左衛門が上越地方の地震発生時のことを「大地震諸用留」として書き残した。被害状況を「川浦村小宮から岡木あたりまで川岸の畑の所々で幅3から4尺から2間くらい、長さ5、6間から12、13間くらいの地割れが発生した。川へ押し出し、川幅を狭めて流れをせき止めているところもある。地割れしたところからは、「青ねば」(青色の粘土)が噴出しているところもあった。」と書き留めている。岡木の対岸にある米岡の川岸でも、ほぼ同じような状況だったものと思われる。

石川村の庄屋、儀右衛門が書いた「小笠原信助様御支配所之節、地震潰家大破損家御手当金村々」(松井家文書)から、諏訪地区関係の村々の被害状況を書き抜いたものが次の表である。幕府領だった村々で、川浦代官所から「御手当金」が支給された全壊、半壊の家屋数である。御手当金の支給対象者は「難渋の者ども」ということで、厳格な査定によって絞り込まれた数値である。(『上越市史通史編3 近世1』p.239により作成)

□天保の飢饉
北新保の「御廻米御免願書不熟願書写」(川室家文書)は、1833(天保4)年の頸城郡内の凶作の様子を次のように示している。


 「当村は去る冬より格別の大雪で、百姓が開作(田畑作業始め)を予定していた日より、おおよそ30日余りも雪消えが遅れた。田を打ち、用水が温かくならないうちに田植えをした。稲の生育に良い天候を期待していたが、程なく土用に入り雨が降り続いた。不順の気候で冷気のため、夏中刺し子の袷を重ね着するような始末で、どの作物も実りが悪かった。8月1日(新暦9月14日)には風雨となった。山近くの村々では前例のないほど霰や雪が降り積もった。このため諸作物がすべて寒立ちの状態になった。天明の飢饉以後50年来なかった凶作で、御年貢を納めれば夫食米(ふじきまい)がなくなり、一同餓死するほかなく、途方に暮れて御検見をお願い申し上げた。(中略)
 この節は、くず、わらび、きのこ、ならの実などを我がちに取り集め、春になればうつぎやその外野草を掘ったり摘んだりして食料とする心得である。また山入りの村々から虫生や郷津の浜へ海草を採りに出かけている。慣れないことで海中で転んだりしながらようやく少しずつ採りあげたところ、その所の者に差し押さえられるということもあった。(中略)年々不作が続き、小前で生活が困難な者たちは、今年の5月中よりつづれ着物などまで質に入れて夫食米を買い求めている状況である。この秋も凶作で困窮のあまり、小前の者たちは村々の堂や神社に集まり、御年貢米などとても完納する手段がないので、恐れながら直々嘆願申し上げようなどと言っているという風聞もある。心得違いの行動をとるのではないかと、村役人は夜も昼も安心できない。(後略)


この資料は、当時高田藩の預所であった飯塚村、小泉村など17カ村の惣代が、幕府の勘定奉行に年貢を全額「御救い値段」の金納で、5カ年賦にすること嘆願したものの一部である。この年の凶作は、天明年間の凶作と同様に冷害によるもので、山間部での被害が大きかった。嘆願の結果は、平野部は被害が少ないとして、通常のように賦課された。

 ※引用・参考
 ・『上越市史 通史編3 近世1』267-269 上越市(2003.3.31)