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希望燃ゆ 諏訪の里

希望燃ゆ 諏訪の里 [第12回] 10.領地支配の変遷

1598(慶長3)年4月、越前国北ノ庄から堀秀治(ほりひではる)が45万石で越後国春日山に入封(にゅうほう)する。1606(慶長11)年に秀治が死去し、跡を継いだ嫡男忠俊は翌年福島城に移った。他の村々と同様に諏訪地区の村々は、堀氏、松平忠輝、酒井氏、松平忠昌、松平光長という藩主の支配下にあった。藩主による支配は、松平光長の所領が越後騒動によって1681(天和元)年6月26日に没収され、幕府領となるまで続く。高田廻りの村々は在番大名により1865(慶応元)年まで支配される。幕府領とは、幕府の直轄領と多数の旗本、御家人の領地のことである。以降、諏訪地区内の各村々は、基本的には1786(天明6)年までは幕府領、以降は代官により支配されている。1809(文化6)年から幕末までは、榊原家預所となる。この間、様々な状況で支配関係が変動した村も多くあった。変動があったいくつかを『上越市史 通史編 近世1』から拾うと次のようなものであった。各項目の末尾にページを示した。 

□南新保村・同所新田・荻野村・田中村・米岡村が与板藩領に
1706(宝永3)年1月16日、井伊直弼が遠江国(静岡)掛川城から与板(現三島郡)城主となった。拝領高は2万石だった。そのうち頸城郡内で30カ村、高7,611石余りが与えられた。津有郷での関係地域は、南新保村・同所新田・荻野村・田中村・米岡村(全体では17カ村)が与板藩領になった。1711(正徳元)年の村替で再び幕府領になった。(p.410)

□川浦陣屋設置による村替
1742(寛保2)年、吉木陣屋の代官荻原藤九郎のとき、川浦村周辺の村々が川浦に陣屋新設運動を起こした。幕府は翌年、吉木陣屋を廃して川浦陣屋を新設しようとしたが、吉木と高野陣屋の支配下にあった村々が反対、そこで幕府は高野陣屋を幕府領支配の本拠にした。元陣屋という。川浦村にはその出張陣屋をおき、吉木陣屋にいた荻原藤九郎を配属した。川浦陣屋の創設である。しかし、この混乱の責任をとって荻原は所替となっている。
1747(延享4)年、幕府は川浦出張所を高野陣屋に併合、陣屋付の村々を村替させた。3年後の1750(寛延3)年には元陣屋の高野陣屋を廃止、陣屋付の村々を荒井陣屋の支配下とした。1754(宝暦4)年には川浦陣屋が再設置され荒井陣屋付の村々の一部を支配した。そのころ、真砂村にも陣屋が設けられたようである。(p.412)

□村替の代地として田沼意正領となったことでの支配変更
1820(文政3)年4月8日に幕府は高田藩の財政支援のため、陸奥国内の高田藩預所を頸城郡内に所替した。陸奥国内の高田藩領地を幕府に返還させ、その代わりとして頸城郡内において川浦代官の竹内新八郎が支配していた高5万9,492石2斗5升を榊原遠江守に預けた。こうして支配地がなくなり、川浦陣屋は廃止、売却された。ところが、翌年文政4年4月4日、幕府は高田藩預所高5万2,224石4斗5升6合(当分預所を除く)のうち、飯田川流域16カ村、高6,514石6斗8升2合を割いて、陸奥の国信夫郡内の3カ村、高3,000石の村替の代地として田沼意正に与えた。津有郷の11村、当地域では東原、鶴町、田中、米岡村が田沼領となった。
田沼意正は、安政期から天明期にかけて幕府の老中を勤めた田沼意次の4男である。川浦陣屋は1821(文政4)年10月3日、建屋・畳・建具・牢屋・雑具もろとも入札に付されている。田沼家は川浦村に役所を設けたが、田沼家の飯田川流域領の設置期間は短く、田沼意正が遠江国(静岡県)相良へ国替となった1823(文政6)年7月8日までの2年余りの期間だった。(p.414)
1847(弘化4)年に、津有郷の米岡古新田、重川新田、荻野村、角川村、角川古新田、高津郷浦梨村の6カ村が高田藩預所から代官支配地に編入された。1831(天保2)年、脇野町代官和田主馬の時に川浦陣屋が脇野町代官を兼務する出張陣屋として再興され、1843(天保14)年に石原清左衛門が代官として就任、代官支配が続く。(p.415) 

□郷村支配
 惣肝煎・大肝煎 藩内を掌握し、年貢を確実に集めるために、江戸時代の初めには統治の仕組みの整備に取り組んでいる。堀秀治は、郷ごとに土豪(その土地の豪族。その土地で勢力のある者)を登用して「惣肝煎」として幕府直領地、給地の別なく行政、徴税を行う権限を与えている。この郷の支配の末端にある村の村長が「肝煎(きもいり)」である。
松平忠輝時代には、豪商などが惣肝煎として登用された。惣肝煎は、郷代官的な性格をもつ藩主権力を直接代行する大きな権力を持っていたといわれている。
松平忠昌時代に、統治の仕組みの整備が進み、惣肝煎制が細分化され「大肝煎(おおきもいり)」と改称された。村の長は、それまでと同様に「肝煎」と呼ばれた。
松平光長時代になると、組制度が一層整備され、郷村制度が完成した時期である。この頃になると村の肝煎は、「庄屋」と改称された。
 

 大肝煎制度の変化 『上越市史 通史編3 近世1』p.419に、大渕の曽我家文書によって作成された1682(天和2)年の大肝煎が支配した村数が示されている。諏訪地区周辺の郷では次のようであった。

【この頃の諏訪地区の村】(『上越市史通史編3 近世1』P.388、P400による)
・津有郷  南新保村・米岡古新田・重川新田・高森村・堀ノ内村・東原村・ 鶴町村・田中村・米岡村
・上美守郷 上真砂村・北新保村・杉野袋村

上美守郷の大肝煎に「杉袋 鹿島丹助」の名前が見える。杉野袋の鹿島家の環濠屋敷にその面影を感じることができる。

 大肝煎権限の縮小 天和期に入る頃になると、幕府は幕府領の支配強化策として、中世の土豪的な性格を持つ大肝煎の特権の削減を行っていく。天和元年には、大肝煎を「大庄屋」に、その後「大割元」に改称した。地方によっては「大肝煎」の名を継続するところもあったという。制度の廃止、小規模化によってかつての「大肝煎」の権限は衰退した。高田藩領では、大肝煎制度は続いたものの、組村制は次第に小規模化し、幕府領と同様、権限は縮小した。

※引用・参考
・『上越市史 通史編 近世1』pp.410-420 上越市(2003.3.31)