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希望燃ゆ 諏訪の里

希望燃ゆ 諏訪の里 [第13回] 11.鶴町村、米岡村から始まった越後質地騒動

頸城質地騒動 江戸時代の中ごろ、享保年間(1716~1736年)に上越地方を舞台に大規模な百姓一揆(騒動)があった。高田藩主は松平家(久松家)。江戸時代の土地は、所有者が資金繰りに行き詰まると質に入れられた。この土地のことを「質地」という。定められた年限のうちに借りたお金を返し終われば、質地は元の持ち主に返ってくるが、返しきれなければ「質流れ地」となってお金を貸してくれた人のものになる。こうして大量の土地を所有する「地主」が誕生していった。ところが質地についてはいろいろな慣行があり、質入れした人(質入人)たちは、質流れになっても元金を返済すれば、半永久的に質地を取戻す権利があるとの考えを根強く持っていた。このため、地主との間でもめごとが絶えなかった。江戸幕府はこうした状況に対応するため、1721(享保6)年12月に「流地禁止令」を発布した。「質流れ地を認めない」という法令なのだが、御公儀御百姓として「地主」としての観念が形成されていた土地を質入れした人々は、この「質流禁止令」を「質流れ地を取り戻せる法令」と受け止め、質地返還を求めて様々な運動を展開した。この運動(騒動)を「頸城質地騒動」という。上越地域の「質地禁止令」は、1722(享保7)年に出された。
このころ上越は、関川の西部一帯と西浜、犀浜の海岸線の村々は高田藩領で、その他の関川東部から東頸城の村々は幕府領(いわゆる天領)の割合が多い地域だった。高田藩松平家は、この法令による混乱を予想し、高田藩領の村々へはあえて法令を触れ出さなかったようだ。そのため、頸城質地騒動は関川の東岸から頸南、東頸地域の幕府領の村々で展開されていく。1722(享保7)年6月に「流地禁止令」は、頸城の幕府領に回覧されたものと思われる。この「流地禁止令」に対応して、質置人たちは質地を取り戻す絶好の機会と考え鶴町村・米岡村の質置人が中心になって要求項目を相談したという。

騒動の始まり 騒動の始まりは1722(享保7)年10月24日だった。幕府領の鶴町村・米岡村・角川村・新屋敷村・四辻村・角川新田村の6カ村の質置人18人が、鶴町村の質取人円助ら鶴町村・おきのへ村の質地地主3人の居宅へ押しかけ質地返還を求めたうえ、米を強奪するという事件が起こった。これらの農民は、11月3日には野村の質地地主を襲い、米を強奪している。これを知った福田・稲村の両代官所は3日の夜、18人全てを捕え、翌朝に黒井村の牢に入れ、翌年3月13日までの130日間拘留した。ところが11月4日には、他の質置人が稲村代官所で「流地禁止令」の説明を受けた帰りに、田村の質地地主を襲い強奪した。同年(1722)11月には質置人22人が江戸評定所への出頭を命じられた。この22人の内訳は、鶴町村5人、米岡村3人、荻野村2人、四辻村3人、新屋敷村2人、角川村5人、野村2人となっている。騒ぎは瞬く間に大きくなり幕府領の代官所だけでは抑えきれなくなった。このため、地主たちは協議の上、騒動の発生を江戸に訴え出た。
 「流地禁止令」に端を発した頸城質地騒動は、1723(享保8)年3月末、高田平野中央部から離れた菖蒲村(現上越市大島区)にも飛び火する。幕府は、繰り返される騒動やたび重なる訴えに業を煮やして、9月には「流地禁止令」を撤回することにした。しかし、一度土地を取り戻せると希望を持った質入人たちはもう収まらず、1724(享保9)年3月3日、吉岡村や馬屋村の質入人指導者のもと、約2,000人が岡野町(清里区)の菅原神社に集結し、ほら貝や棒、とび口などを手に気勢を上げた。騒動は、一揆に姿を変えたのである。
 その後、一揆勢は鍬などを使い次々と質流れ地の耕作を強行した。一揆の勢いは拡大し続け、上板倉・下板倉・上美守・津有・武士・高津・大崎・新田・大瀁・里五十公・山五十公の各郷合せて約150カ村から一揆勢が参加する大騒動となった。すでに幕府代官所の力でこの一揆を鎮めることは困難となっていた。
 幕府は同年4日11月、近隣の大名に越後の幕府領33万石余を預けることにした。このうち頸城郡の10万石余りは高田藩松平家(久松家)に預けられることになった。

一揆指導者への追求 はっきりしない幕府の態度とは裏腹に、高田藩松平家の一揆指導者に対する追及は峻厳を極めた。6月までには100人を超える指導者が拘束されて取調べが始まり、12月までに約半数が牢内で死亡、翌年1725(享保10)年2月以降には刑が確定し、3月11日から処刑が行われている。処罰は、吉岡村市兵衛ほか5人が磔、獄門晒首10人、死罪10人、遠島20人、所払い19人、過料(罰金)28人で無罪は9人だけだった。さらに4日に江戸での牢死者のうち磔2人、獄門1人、死罪を追加し、地元で死んだ一人にも死罪の判決を下している。こうして死刑30人、島流し(佐渡に送られたらしい)20人、追放(所払い)19人、罰金28人の刑が執行された。高田藩は、この判決を刑の執行まで世間に知らせず、磔、死罪の判決を受けたものは今泉河原で、獄門の判決を受けたものは城下の春日野で処刑し、ともに今泉河原に高札を立てて死体を晒した。江戸で捕縛された鶴町村勘兵衛は、死罪と記録されている。

結末 およそ3年に渡って繰り広げられた頸城質地騒動はこうして終息した。この事件の根底には、当時の土地所有を巡る権利や金融習慣の曖昧さがあった。幕府の対応も、土地を失っていく人たちは救いたいが、銀行も組合もない時代に土地を担保に地主からお金を借りるという仕組みも否定できないという状況の中で揺れ動いた。その曖昧さから生まれた誤解が発端とはいえ、自分たちの権利を訴え、困窮する地域の人々を率いて立ち上がった指導者たちの最後はあまりにも悲しい結末だった。

現在の今泉河原・瀬戸橋付近


※引用・参考
;花岡公貴「頸城質地騒動」「広報じょうえつ」885(2010.9.15)を基に、『上越市史 通史編3 近世1』pp.511-543、高橋雅史『頸城質地騒動における農民の行動と意識』p.150、p.197 上越教育大学大学院修士論文(1993.3)を参考に一部加筆