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希望燃ゆ 諏訪の里

希望燃ゆ 諏訪の里 [第14回] 12.間部領渡り(まなべりょうわたり)を阻んだ杉野袋他31カ村

間部 詮勝(まなべ あきかつ)1802年3月30日‐1884年11月28日
江戸時代の領地の増減、移動、支配の変更は幕府の権力の行使で、大名統制の強力な政策の一つだった。間部 詮勝は江戸時代後期の大名で、越前鯖江藩第7代藩主(間部家8代)で、幕末には老中首座を務めた。間部領渡り(まなべりょうわたり)は、この鯖江藩間部領の高1万14石余を幕府に返し、高田藩預所の杉野袋村等31カ村、高1万1196石を代地するというものであった。31カ村の内、25カ村が中江用水組に属していた。諏訪地区の村としては、上真砂・杉野袋・堀之内・高森・北新保・南新保の6カ村が含まれていた。
この領渡りは、老中間部詮勝が対朝廷・水戸藩対策をめぐって大老井伊直弼と対立、1859(安政6)年12月に老中を辞職、年が変わった1860(安政7)年2月に間部懲罰として行われたものである。(写真;ウイキペデア「間部 詮勝」)
 ※生年月日は、『日本史辞典第二版』角川書店 1984.10.3による。

 

□幕府より高田藩への間部領渡り申し渡し<1860(万延元)年2月>


   申渡
此度間部下総守領分村替上智(知)被仰付候、為代地其御預所之内ヨリ高附目録之通相渡候間従当申年物成郷村等可被引渡候
右者内藤紀伊守殿御差図ニ付松平式部少輔・松平出雲守・塚越大蔵少輔申達之
   申二月(安政七)
 右被仰渡之趣承知奉畏候、依之御請申上候、以上
             榊原式部大輔家来 
   二月廿三日            三宅予茂七 印
  越後国頸城郡之内御村高帳
  (杉野袋村等31ケ村村別石高書上・・・略
  合高壱萬千百九拾六石壱斗八升八合九勺
  (内容・・・略)
右者此度間部下総守領分越前国今立郡・丹生郡・大野郡高壱萬拾四石余村替上知被仰付、右為代地込高共壱萬千百九拾六石余書面之通被下之候間、得其得(意カ)当申年物成郷村見取場等可被相渡候、以上
  安政七年申二月            宮田善太郎 印 (他5人略)
 榊原式部大輔殿
   御預所役人中


該当31カ村をはじめとする反対運動 当然、この申し渡しに対して、関係者は猛反対をすることになる。対象となった31カ村、中江用水組、高田藩の反対理由はおよそ次のようであった。
○31カ村
 ・
一般的に言って幕府領は諸負担が藩領より軽い。
 ・藩庁がある鯖江まで北陸道で約80里(320㎞)と遠い。
 ・中江用水は末流部にあり、上流部は幕府領・預所が占め、藩領では用水の確保が困難である。
中江用水組
 ・
安政4年に6年がかりの中江の郡中余荷滞り出入が解決したばかりで、村替で再燃が懸念される。
 ・水利の運用や施設管理で、幕府領と遠隔の鯖江(間部領)間では、問題解決が困難だ。
高田藩
 ・
奥州の預所と引き替えた預所が1万石余減知する。
 ・他領が混在することで藩の支配が錯綜する。

こうして反対・阻止運動が展開された。運動の手順は、まず高田預所役所に反対の請願を、3月初めに出府して幕府重職者・評定所構成職及び間部氏に訴願を行った。訴願は、駕籠訴・門訴・箱訴と数次(最低4次)に渡って行われたが、いずれも高田藩江戸預所役所に引き渡され、幕府への訴願取次は拒否され、国元に戻ることを説諭された。諏訪地区関係の訴願人では、庄屋の久左衛門(上真砂)、儀左衛門(北新保)、繁右衛門(高森)、宇一郎(南新保)の名前が見える。
1860(万延元)年閏3月に、31カ村側が江戸高田預所役所に関係役所への取り計らい方を訴えた訴願書に、「万一村々愚昧之百姓共騒立候様罷成候へ者村役人ニおゐても・・・」と「農民の反抗心」を匂わせている。また、海岸防御についても「幸ひ私共村方ハ今町湊江近郷ニ付万一御備筋等之儀ハ乍不及人馬御用をも相勤度聊御国恩奉弁候折柄・・・」と協力を誓っている。中江用水組の訴願では「全ク国中之衰ヲ求拵候哉…」と幕府の失政を訴えている。同時に、間部側への働きかけも行われ、間部側からも幕府に3次の申達書が出された。

領渡り阻止の成功 こうした反対運動によって、1860(万延元)年申10月、「差し止め」の通知が出された。


申十月廿七日御勘定所ニおゐて申渡

榊原式部大輔 御預所役人 浅野清右衛門

今般間部下総守領分替之義御差止メ被仰付候ニ付、代地として其御預所より可相渡郷村引渡不及候 右者久世大和守殿御指図ニ付松平出雲守、塚越大蔵少輔申達之旨御取箇方組頭菊地大助差出、係り深山宇平太・知行割掛り伊藤久左衛門より書付を以申達之


領渡りの阻止に成功した農民の喜びは、「三拾壱カ村の村々、十月廿七日を間部祭と申すはその祝いなり」(本覚坊文書)と示されている。また、幕府・藩への献金も行われた。
 ・文久3年、31ケ村側幕府に500両、高田藩に100両の献金申出・・・中断
 ・申年以来精力を得候故一際百姓渡世相励、休日等ニも縄筵等之手業を相営ミ少々宛之利潤ヲ得、折も有之候ハヽ奉報御国恩度趣…
なお、1842(天保13)年での諏訪地区の各村々の支配は次の通りであった。
 ・津有郷  南新保、高森、堀之内、米岡古新田、米町・・・高田御預所
       荻野、東原、田中、鶴町、米岡・・・・・・・・幕府領
 ・上美守郷 北新保、杉野袋、上真砂・・・・・・・・・・・高田御預所

※引用・参考 ・『新編 中江用水史』中江土地改良区(2.28)
       ・清水万蔵「地域づくり講座資料 江戸時代の諏訪について」諏訪分館(2007.9.8)