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希望燃ゆ 諏訪の里

希望燃ゆ 諏訪の里 [第15回] 13.主席家老に馬道を教えた湯浅市兵衛

小栗美作守が1649(慶安2)年8月1日馬道の極意を相伝された際に、師範の湯浅市兵衛に差出した「起請文前書」(きしょうもんぜんしょ)が、湯浅家(米岡)に残されていた。湯浅家がこの時代から米岡に居住していたか否かは定かではない。

起請文は、平安時代末期から江戸時代までの古文書の一つ、自己の行動を神仏に誓って遵守履行すべきこと,違反した場合は罰を受ける旨を記した文書をいう。遵守事項を記す部分 (前書) と、違約した場合にその罰をこうむるべき神仏名を記す部分(神文)とから成り、まず約束や契約の内容を書き、次に差出者が信仰する神仏の名前を列挙し、最後に、約束を破った場合にはこれらの神仏による罰を受けるという文言を書く。後二者を「神文(しんもん)」または「罰文(ばつぶん)」といい、契約内容を書いた部分を神文の前に書かれることから「前書(ぜんしょ)」という。鎌倉時代後期ごろから、起請文は各地の社寺で頒布される牛王宝印(ごおうほういん。牛玉宝印とも書く)という護符の裏に書くのが通例となった。(引用・参考;ウイキペデイア「起請文」による。)

<『中江用水史』p.93(1967.3)より転載>
 ※ 現在、この「起請文前書」は所在不明

 

  敬白起請文前書之事
、馬道乗方極意御相伝馬上之御免被下候、
  忝次第此御芳情生々世々相忘申間敷事
一、此上者弥々如在中うしろくらき事無之、
  疎略申間敷事
一、御相伝之通、万如先規取をこなひ可申事
一、たとへ如何様之ちなミ無他事仁御座候とも
  法度之せいしなくして諸大事相伝申間敷候事
一、当流之意趣を一言も他流ニ不仕、御流取立可申、
  我等舌頭より流布不仕様に心懸可申事、
  付、御手前御ちかい之儀候共
  我等心中無相違御相伝儀あしく仕間敷候事
   右の条々少も於相背者
  上ハ梵天・帝尺・下四大天王・ゴ道・ミやうくわん・天満大自
  在天神・まりしそん天・八まん大ほさつ・あたこ・はく山・いつ
  なの大明神・かも・木舟・いなり・儀おん・殊ニなひ・かい下
  かいのりう王りう神、別而うぢ神さらしな、日本国
  中之大小ノ神、冥道之御罰ヲ罷蒙、現在ニ而ハ弓
  矢ノミやうか尽き 人中ニテ背煩ヲ請、来世ニ而ハ無間堕
  在可仕者也、仍起請文如件
  慶安弐年            小栗美作守
      丑ノ八月朔日           正(花押)
       湯浅市兵衛殿


□ 小栗美作守 おぐりみまさかのかみ(1626年~1687年)
小栗美作守(名は正矩 まさのり、通称「美作」)は、1626(寛永3)年に越後・高田藩筆頭家老の家に生まれた。寛文5年地震で圧死した父の跡を継ぎ、筆頭家老となる。家老として直江津港の改修、中江用水の開削、新田開発などの多くの業績をのこした。諏訪地区とかかわりの深い中江用水は、野尻湖・池尻川を源とし、全長26キロメートルの、当時としては越後第一の大用水だった。美作は、各地で新田開発を行い、数万石の増収を図った。当時の農業土木工事として最大級の工事だった中江用水の開削は、美作なくしては完成することはできなかった。
延宝7年に藩主継嗣(けいし=世継ぎ)問題が絡んだお家騒動(越後騒動)がおき、将軍徳川綱吉の裁決によって、城主松平光長は改易となり伊予松山の松平久松家にお預け、小栗美作・大六父子は切腹、美作の弟二人は伊豆大島に遠島となった。1687(貞享4)年、美作56歳。墓は善導寺(寺町2)にある。この越後騒動には、家綱から綱吉への将軍の後継者問題が深くかかわっているといわれている。

善導寺(寺町2)小栗美作守の墓

 

  ※ 参考 『上越市史 通史編3 近代』192-194 上越市(2003.3.31)